教育の本当の価値とは
デジタル機器やAIと違って、体育や音楽は地道に繰り返し練習することの価値や素晴らしさを教えてくれます。技を磨くことの喜びというものを経験させれば、ほかに興味を持ったことにも手を抜かなくなるでしょう。
勝ち負けがあるスポーツでは、結果を出すことが目標のように捉えられがちです。しかし、結果として上手にできなかったり、試合に負けたりしても、地道に努力を重ねることは決して無駄なことではありません。その過程で得られるものがいかに大きいかを教師が示してあげたいものです。
数学でも、科学の実験でも、失敗を繰り返さないようトレーニングが求められます。いきなり難しい問題が出されても解けるはずはなく、段階を踏むことで見える景色が変わってくるわけです。専門的な研究も、これとまったく同じです。
教育の価値は、人間が人間を育てるという一点に尽きます。人間にしかできないこととはいったいどのようなことなのか、今一度問い直していただきたいです。
どんなに膨大なデータや高性能のAIがあっても、本当の意味で寄り添った指導はできません。人間の教師であれば、生徒がどの程度理解しているかや、その生徒の性格や強みを基に、最適な指導方法を見つけることができます。人と人であるからこそ、互いの信頼関係のもとに困難を解決し、能力をさらに伸ばすことができる。人が人を見るというその「確かな目」というものが教師になければ、うまく育てられません。
「シンギュラリティ」は到来するのか
生徒の指導をAIに任せるようになったら、教師という仕事は終わりです。生徒のほうでも、教師を信頼できなくなってしまうでしょう。
AIの性能が人間の知能を超えるという「シンギュラリティ」の到来を唱える研究者もいますが、それはまったく根も葉もない憶測にすぎません。人間があきらめなければ、シンギュラリティなど存在しないのですから。
ただ、早々に人間があきらめてしまえば、人間がAIや機械に使われるだけです。将棋の名人も「AI超え」の一手を見つけられるのですから、人間がAIを上回るという可能性は決して消えないのです。もちろんスポーツや芸術でも同じです。
子どもたちの学びにデジタル機器やAIなど必要ないということ、むしろ使わないことで本当の教育が取り戻せるということを、今一度考え直す必要があります。
日本最古の「紙の教科書」は平安時代末期の『明衡往来』であり、「往来物」として明治前期まで使われました。この一〇〇〇年もの実績に対し、たかだか二〇年ほどしか利用されていないデジタル教科書に置き換えることは、教育の根幹を壊す恐れがあります。
教育効果が保証されているのは、「紙の教科書」一択しかないのです。


