長男と看護師の教え子が結婚
1904(明治34)年、和は日露戦争の慰問袋の回収のために大八車を自ら押して、街中を駆け回った。「ああ、忙しい、忙しい」が口癖だったという。
一方、六郎にも朗報があった。この年、和の教え子で優秀な看護師である澤本操と結婚したのだ。和は「看護婦人矯風会」会報に「一年の間受けし恵」として「最愛の子に好配偶を与えられしこと」「愛子と嫁と母と平和の家庭が結びしこと」を綴った。ひとつ大きな荷を下ろしたような気持ちだったことだろう。操は大関家に同居しながら、和とともに看護婦会に出勤するようになった。
1905(明治40)年、和は関節リウマチの合併症である心臓弁膜症を患い、那須の温泉での療養を余儀なくされた。しかし、病床にあってもじっとしてはいられない性分は変わらず、『実地看護法』を執筆、出版するなど活動を続けた。1909(明治42)年には、東京・神田に念願だった「大関看護婦会」を設立する。
孫も生まれるが、悲劇が襲う
このころ、六郎と操は麹町で文具店を営んでいた。そしてこの年、待望の第1子、一郎が誕生したのである。六郎はがぜん奮起し、聖書販売の仕事があるという東南アジアに行くことを決意。出発を前に、和や哲も含めた一家は写真館で記念写真を撮影している。
ところが、単身ジャワ島へ渡った六郎は、翌年マラリアに罹患して帰らぬ人となる。享年33歳。息子の一郎はまだ2歳だった。
残された操は文具店をたたみ、「大関看護婦会支部」の看板を掲げたものの、次第に和のもとへ手伝いに通うことが増え、その後同居するようになった。しかし、6年後には彼女も病に倒れ、亡くなってしまう。一郎はわずか6歳で両親をなくしてしまった。