りんのモチーフ大関和は2児の母
NHK連続テレビ小説「風、薫る」のヒロインのモチーフとなった大関和は、明治のナイチンゲールと呼ばれ、日本における近代看護の祖のひとりである。
1858(安政5)年、下野国黒羽村(現・栃木県大田原市)に家老の娘として生まれた和は、英語を学ぶうちにキリスト教に親しみ、看護職の必要性に目覚め、帝大病院の婦長を経て看護師養成所を設置するなど、輝かしい経歴を重ねた。しかし、その陰で子どもたちは母の不在を抱えて育った。
大関和に結婚話が持ち上がったのは19歳のころのこと。美人の評判を聞きつけたか、父の同僚だった元家老の渡辺福之進豊綱から話が来た。福之進は和の30歳近く年上で女性問題があり、外に子供もいるという。和は嫌がったが、父の願いだったため断ることができず、女性関係の清算を条件に承諾。1877(明治10)年には長男を出産した。
ところが、夫はこの息子に「六郎」と名付けた。聞けば、外に生ませた子どもを入れて六番目の男児だという。和は約束が違うと責めたが、離婚すればお前の恥になるぞと言われる始末。いったんは我慢したものの、3年後に娘の心を身ごもると離婚を決意し、出産の里帰りをしたまま戻らなかった。男児の六郎だけは渡辺家に残され、母子は離れ離れになった。
離縁で息子を手放すも、後に同居
東京の実家に戻った和は、牧師・植村正久の弟、正度が開いた正美英学塾で英語を習い始めた。そこでキリスト教に触れ、心を動かされる。とくに女性の権利を認め、一夫一婦制を重んじる教えに共感した。以降、キリスト教は和の根幹となり、ときに周囲に煙たがられるほど熱心に布教することになる。
和の優秀さに目を留めた植村は、正規の看護師(トレインド・ナース)になるよう勧めた。しかし当時、看護師は医師や患者の雑用係と見なされて地位が低く、「出戻りか然もなくばあばづれのしたたか者と思われる様な者ばかり」(『職業婦人調査』)といわれる職業だったため、和は難色を示した。それでも、裕福な家庭に生まれながら従軍看護師として身を挺したナイチンゲールの話に心を動かされ、決心した。
このころ、母を慕っていた息子の六郎は念願叶って渡辺家を離れ、和と妹と和の母・哲との同居を開始する。しかし、育児の多くは祖母の哲が担った。
1886(明治19)年、和は桜井女学校に新設された附属看護婦養成所に入学。翌年には植村の一番町教会で洗礼を受け、寮に住み、帝国大学医科大学附属第一医院(現東京大学医学部附属病院)に実習に通いながら勉強を続けた。
和は新潟へ、長男は孤独だった
養成所を卒業した和は1888(明治21)年に第一医院に乞われて婦長となったが、看護師の地位を上げようと奮闘するうちに医師たちとの間に軋轢が生じ、2年で退職。その後、開校したばかりの新潟県の高田女学校(現高田北城高等学校)に伝道師兼舎監として招かれ、教育の場へと移った。翌年には、第一医院の医師が高田に開いた知命堂病院の初代看護長に就任。さらに翌年には附属の「産婆看護婦養成所」の講師も務め、トレインド・ナースの育成に力を注いだ。
ところで、このころ子どもたちはどうしていたのだろうか。
残念ながら彼らについて触れられている史料はほとんどない。ただ、六郎が内向的な性格に育ち、世の中をななめに見るようなところがあったとする史料はある。学友たちとは違い、両親はそろっておらず、母も寮に住み込んだり新潟へ転勤したりして、顔を合わせる機会はめったにない。さらに、実の父親は別の女性と、母親違いの義兄とともに暮らしている。こうした境遇が六郎の心に影を落とした可能性はある。文学へ傾倒したといわれてもいるが、本に居場所を見いだしていたのかもしれない。
社会運動家・木下尚江との恋
1896(明治29)年、和は5年半勤めた女学校を辞して東京に戻ると、桜井女学校時代の同期だった鈴木雅が立ち上げた「東京看護婦会」の派出看護師として働き始める。翌年には講習所が設置され、講師を務める傍ら、伝染病患者の看護や、著書『看護婦派出心得』(1899年)の執筆、看護師会の団体結成などに奔走していた。日清戦争前後には、増加したもぐりの派出看護婦に心を痛め、内務省を訪ねては取締規則の強化を訴えてもいる。
和は感情が高ぶると涙が出るたちで、心から同情してくれると患者たちには評判が良かったが、上司や役人たちは閉口したらしい。植村正久にはナイチンゲールではなく「泣きチン蛙」だと言われたこともあったという。
そんな和にも、女性としての転機があった。1900(明治33)年、10歳年下の社会運動家・木下尚江と淡い恋愛関係に陥ったのだ。しかし、木下の奔放な女性関係を知る友人が強く反対し、和はこの話を諦めることになる。
【参考記事】「風、薫る」佐野晶哉が演じるシマケンめぐる切ない史実…大関和が"獄中プロポーズ"されたのに身を引いた理由」
娘は20歳で死去、和のトラウマに
そしてこの年の6月、和は娘の心を突然、病で亡くした。母親らしいことも看護師らしいこともできぬまま、たった20歳で夭逝してしまった心に対し、和の悔恨はいかばかりだったろうか。他人にいくら「異日、ナイチンゲールとならん」(『東京婦人矯風会雑誌』)と褒められても、娘ひとり救うこともままならなかった事実は深く突き刺さったことだろう。後年、和は心の話題は極力避けていたともいわれている。
翌1901(明治34)年、和に再び結婚話が持ち上がった。相手や詳しい事情は伝わっていないが、この話も周囲の反対によって実現することはなかった。「どうか、どうか私の希望を邪魔しないで下さいまし、後生一生のお願い、この通りです」と涙を流して訴えたという逸話からも、和がこの結婚に強い思いを抱いていたことがうかがえる。このとき、43歳。多くの困難を乗り越えてきた和だったが、一人の女性として望む人生を手にすることは、なかなか叶わなかった。
この年、創始者だった鈴木雅(桜井女学校附属看護婦養成所の同窓生で元同僚)が「東京看護婦会」を退くと、和は会頭となる。内紛や同業者の妨害に遭いながらも奮闘し、1903(明治36)年には「東京看護婦会講習所」に通信講座部門を設置するなど、多忙な日々を過ごした。
息子は医師になろうとして挫折
このころ息子の六郎はといえば、文学を断念して医術開業試験に挑んだが不合格が続き、やがて家に閉じこもるようになった。偉大な母の陰で、自身の生き方を見いだせなかったのかもしれない。
六郎の息子、一郎から聞き取りを行った高橋政子は、和には包容力や広い視野がある一方、母性的な愛情に乏しく、子育てを祖母らに任せて社会活動を優先したと評している(「大関和のこと(補遺)」)。
猪突猛進にキリスト教精神で突っ走る和が、一番身近な家族に対するケアを十分に果たせなかったことは少し皮肉な感じもする。もっとも、当時は女性が社会活動と家庭を両立すること自体が困難だった。男性であれば家庭を顧みず仕事に邁進しても問題視されにくかった一方で、女性が同じように活動すれば、母性の欠如として批判されがちだったことには注意が必要である。
長男と看護師の教え子が結婚
1904(明治34)年、和は日露戦争の慰問袋の回収のために大八車を自ら押して、街中を駆け回った。「ああ、忙しい、忙しい」が口癖だったという。
一方、六郎にも朗報があった。この年、和の教え子で優秀な看護師である澤本操と結婚したのだ。和は「看護婦人矯風会」会報に「一年の間受けし恵」として「最愛の子に好配偶を与えられしこと」「愛子と嫁と母と平和の家庭が結びしこと」を綴った。ひとつ大きな荷を下ろしたような気持ちだったことだろう。操は大関家に同居しながら、和とともに看護婦会に出勤するようになった。
1905(明治40)年、和は関節リウマチの合併症である心臓弁膜症を患い、那須の温泉での療養を余儀なくされた。しかし、病床にあってもじっとしてはいられない性分は変わらず、『実地看護法』を執筆、出版するなど活動を続けた。1909(明治42)年には、東京・神田に念願だった「大関看護婦会」を設立する。
孫も生まれるが、悲劇が襲う
このころ、六郎と操は麹町で文具店を営んでいた。そしてこの年、待望の第1子、一郎が誕生したのである。六郎はがぜん奮起し、聖書販売の仕事があるという東南アジアに行くことを決意。出発を前に、和や哲も含めた一家は写真館で記念写真を撮影している。
ところが、単身ジャワ島へ渡った六郎は、翌年マラリアに罹患して帰らぬ人となる。享年33歳。息子の一郎はまだ2歳だった。
残された操は文具店をたたみ、「大関看護婦会支部」の看板を掲げたものの、次第に和のもとへ手伝いに通うことが増え、その後同居するようになった。しかし、6年後には彼女も病に倒れ、亡くなってしまう。一郎はわずか6歳で両親をなくしてしまった。
看護婦の地位向上のため働いた
大関看護婦会は大正時代に全盛期を迎える。
和は一流の看護師十数人を抱え、そのうち約3分の1を内弟子として住み込ませ、生活全般から看護の専門知識までを教え込んだ。さらに妹とその次男を呼び寄せて家事を任せ、弟の遺児も引き取った。一郎は、多くの人に囲まれた賑やかな環境のなかで成長することになる。
和は、実の子どもたちに十分に手をかけられなかった埋め合わせをするかのように、一郎をとてもかわいがった。しかし、反抗期を迎えるころには手を焼き、かつての教え子の鎌倉の家に寄宿させ、そこから海星中学へ通わせることにする。
それでも一郎の奔放さは収まらず、和に時計を買わせたり、服を仕立てさせたりしたかと思えば、気に入らないものは売り払うこともあったという。
その後、一郎は和に学費を負担してもらい、明治学院へ進学。そして1932(昭和7)年、彼が卒業を迎えた年に、和はその生涯を閉じた。73歳だった。
葬儀の日に、本郷弓町一丁目26番地(現・文京区本郷1丁目)の大関看護婦会に届けられた花輪は本郷春木町(現・本郷3丁目)の坂の上まで数百メートルにわたって並べられたといわれ、訃報はラジオでも流れた。
和の死後、孫は後悔を語った
後年、一郎は祖母との関係を振り返り、こう語っている。「私が両親を亡くしてから、祖母はいっそう私を溺愛したようで、周囲からは目に余るものがあったと思いますし、私自身もそのことによって損なわれているとも思います」「祖母はなんといっても私に宗教心のないのを心の中では不満に思っていたようです」「あんなに心から愛してくれた祖母に対して、何の報いもできなかったことを悔やんでいます」。
近代看護の礎を築いた大関和だが、密かに叶わなかった願いがあり、寂しさや葛藤を抱えながら生きた家族もいた。人生はつねに光と影を併せ持つことを忘れてはならない。
・参考文献
尾辻紀子『近代看護への道 大関和の生涯』新人物往来社、1996年
村上信彦『近代史のおんな』大和書房、1980年
亀山美知子『大風のように生きて 日本最初の看護婦大関和物語』ドメス出版、1992年
田中ひかる『明治のナイチンゲール 大関和物語』中央公論新社、2023年
土曜会歴史部会 編『日本近代看護の夜明け』医学書院、1973年
西條敏美『理系の扉を開いた日本の女性たち ゆかりの地を訪ねて』新泉社、2009年
青山誠『大関和 看護に人生を捧げた日本のナイチンゲール』角川文庫、2026年
相馬黒光『穂高高原』女性時代社、1944年
篠田鉱造『明治百話(上)』岩波文庫、2010年
田中ひかる監修『別冊太陽 大関和 明治のナイチンゲールたち』平凡社、2026年
亀山美知子 『近代日本看護史 3(宗教と看護)』ドメス出版、1985年
高橋政子 『写真でみる日本近代看護の歴史 先駆者を訪ねて』医学書院、1984年
高橋政子「大関和のこと(補遺)」『看護教育』 22(9)(252)、医学書院、1981年9月
高橋政子、桑野タイ子、岡部喜美子「”覆刻版;実地看護法をめぐって”」『看護研究』8(1)(29)、医学書院、1975年1月
『大関和と鈴木雅の人生』メディアソフト、2026年
『看護実践の科学』3(6)看護の科学社、1978年6月