「父性的な育児」の必要性
しかし、最近では「多様性」「自由」「個性」などのことばばかり注目されていて、誰が作ったわけではない雰囲気に親も社会も翻弄されています。
ここは面倒に首を突っ込むくらいなら「はいはい」と凌いでおくほうが楽なのでしょうけれども、これは単なる責任放棄です。
子どもは社会の宝です。そして、その子が次の社会を担っていけるようにしっかり育てるのは、親や社会の義務なのです。
しかし、そのような気迫を持った親は少なく、結果として、子どもの言いなりになってしまい、子どもは気ままに振る舞う学生や、嫌なことはすぐに投げ出す社会人へと成長してしまうのでしょう。
そんな世相を指摘している『父性の復権』(林道義著 中公新書)によれば、父親、あるいは母親による「父性的な育児」が必要だそうです。
今や働く母親の割合は75パーセントにものぼります。これは至って健全なことです。
そして同時に「育メン」ということばに表されるように、父親の育児参加が求められる社会になっています。
近年では就労意識も変化し、企業戦士よりも自分時間を優先した働き方も好まれます。そんな中、男性が育児参加することは当然のことでしょう。
問題は父親による育児の内容です。同書によれば、最近の父親の育児参加は「父親による母性的育児」であって、「父性的育児」ではないと厳しい指摘がなされています。念のため説明すると、ここで言う父性とは父親を指しません。母性も母親を指したものではありません。
「愛」を提供できるのは親だけ
母性的育児とは食事を与え、清潔にし、包み込むように優しく接する育児です。
対して父性的育児とは、母親から子どもを切り離し、社会の一員となるべき準備をさせる媒介となるような育児のことです。この「父性的な育児」が現在の日本において欠如しているというのです。
父性“的”な育児ですので、これは父親によってもいいですし、あるいは母親が行ってもいいわけです。
倫理の行で親の行動で示すことについて触れました。
そして、その倫理観、あるいは価値観を「権威」を示すことが必要なのです。倫理観や価値観が確立しておらず、それゆえに確固たる判断ができない子どもに、権利や自由などを全面的に委ねることはできません。
つまり「友達のような仲良し親子関係」ではなく、「擁護者・指導者と被擁護者・被指導者としての親子関係」を築き上げることが大切なのです。
そして、そこにおいて重要なのが「愛」です。
子どもを心から尊重する、尊敬する、常に子どもの心の中で何が起きているのかに、あなた自身が心を配る「愛」が必要だということを忘れないでください。
この「愛」を提供できるのは親以外にないのですから。


