「治外法権」の学校現場
文部科学省の体罰基準では、「殴る・蹴る・投げる」は明確な体罰とされています。しかし現場では、指導上必要な場合での「腕を掴む」「制止する」「声を荒らげる」までがグレーゾーン扱いです。事実上、体罰扱いされるということです。
教員が生徒を止めようとしても、「体罰だ」「暴力だ」と訴えられれば終わりです。堪忍袋の緒が切れたある教員が警察に届け出ようとした時、校長は言ったそうです。
「そんなことをしたら、あなたの経歴に傷がつきますよ」
被害者である教員が、沈黙を強いられるのです。
海外では、学校弁護士(スクールロイヤー)が常駐し、トラブル対応を専門家が担う例も珍しくありません。一方、日本では現場の最前線に立つ教員が、いわば法のすき間に放り出された状態。学校は子どもが“治外法権”状態に置かれているからです。
教員が行えば懲戒免職になり得る行為でも、子どもたちは無罪放免。「守られない職業」にやるせなさを感じる教員は少なくありません。
教育の本質は「信頼」にある
教育とは、年齢的に未熟な人間が社会性を身に付けていく営みです。未成年である児童・生徒が間違った言動をしても、教員は寛容に受け止め、正しい方向へ導くべきでしょう。ただ、そんな未成年者であっても最低限の責任を持たなければ、学校生活は成り立ちません。許容できる限度というものがあります。
拙著『正しい思考法 芯をもって生きるための教員の信念100』(明治図書出版)でも触れましたが、私は学級開きの際、「敗北宣言」として子どもたちにこう伝えます。
〈どんなに手がかかっても、どれだけ私の言葉を無視されても、見捨てることはしません。だからお願いをします。「私には言葉で伝えるしか手段がない。だから話は聞いてほしい」〉
子どもが「聞かない」と決めてしまえば、どんなに情熱を注いでも伝えることはできません。これは保護者との関係も同じです。教員はお願いし、協力してもらうしかないのです。
教員が子どもを信じ、子どもが教員を信じ、保護者が学校を信じる。この三者の信頼が崩れたとき、教育はただの「管理」に変わってしまいます。


