山の手エリアの母親「私たちの周りではそんなことはあり得ない」

なぜ、親同士で頻繁に集まるのだろうか。

この母親いわく、普段は仕事をしている分、こういう利害関係のない、子どもたちを軸にしたつながりは貴重であるという。

「こういう集まりはファミレスより、むしろ互いの家を行き来したり、共用のパーティールームでおこなったりすることが多いのです。子どもたちは部屋で遊んでいて、わたしたち大人はリビングでお酒を飲んでいる。父親は夜遅くならないと帰ってこない、そんな家でまだ会話もままならない幼いわが子を目の前にしてストレスを溜めるよりも、仕事の愚痴なんかを集まったみんなに共有してもらうことで気持ちが発散できる……それってある意味健全ではないかと思うのです。まあ、ある種の言い訳かもしれませんが。ちなみに、ファミレスで集まって飲むのもその延長上ですよ。外で食事をすれば、子どもたちに広い遊び場を提供できる、そういう思いがありましたね」

そういえば、と母親は思い出したように言う。

「わたしたちがみんなで飲んでいて、その間子どもを外で遊ばせるのを『放牧』なんて言っていましたね。でもまあ、子どもたちが近くにいれば安心という思いもあるのですが、あるとき外で遊んでいた子どもたちが迷子になりまして、困った子どもたちは自分たちで『すみません。わたしたち迷子です』と交番に駆け込んだことがありました」

わたしはこの「放牧エピソード」を山の手エリアに住む中高生の母親に聞かせた。すると女性はさっと顔色を変えた。

「いや、わたしたちの周りではそんなことはあり得ないです。信じられない」

一方、そんな「外部」からのマイナス評価を予期してのことだろうか、先の母親はわたしにこう言った。

矢野耕平『ネオ・ネグレクト 外注される子どもたち』(祥伝社新書)
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「それが“ていねいな暮らし”でないことは百も承知なのですが、わたしたちのエリアの大半が共働きのファミリー世帯なのです。とはいえ、『男女共同参画』などと言いながらも、家事なり育児なりは母親が結局担当することになります」

この母親が言わんとしていることはよく理解できる。仕事をしながらも、子育てもいつの間にか押し付けられている身としては、同じような境遇の母親たちで集まって、お酒を飲みながらわいわいと語り合うことそれ自体が明日への活力を生み出してくれるのではないか……そんなふうに考えているのだろう。この母親の弁は、夫、というより男性社会の在り方に対して疑義を呈していると言い換えることができるかもしれない。

この話を黙って聞いていた別の母親はことばを継ぐ。

「子どもが保育園に通っていたころは、まだそれでも父親と育児の分業ができていました。たとえば、保育園に送っていくのは父親、迎えに行くのは母親、なんて。でも、子どもが小学生にもなると、父親の育児熱が冷めてしまうのです。ひょっとしたら、もう成長したから大丈夫だなんて安心してしまうのかもしれませんね」