※本稿は、長谷川洋二『八雲の妻 小泉セツの生涯』(潮文庫)の一部を再編集したものです。
セツは生後7日経つと、生家を出された
セツが生まれる前、小泉家とその遠い親戚筋に当たる稲垣家との間に、今度生まれる子は稲垣家がもらい受けるという話が決まっていた。小泉家では、すでに幾人もの子供を授かっていたが、稲垣家は子持たずであったからである。そこで、誕生7日目を祝う「お七夜」を終えた次の晩に、セツは乳母とともに駕籠に揺られて、城下町の西北、内中原町も祖母橋に近い稲垣家の屋敷に連れて行かれた。
セツが生い育つ稲垣家は、代々百石を食み、戦時には、一二の家来を抱える、いわゆる「並士」の家柄で、家格は、約千人の士分の侍の中で、中ほどの位置を占めていた。
父となった金十郎は26歳、ユーモアがあった
セツの養父となった稲垣金十郎は、当時はまだ満26歳の、いたって気のいい善良な侍であった。彼は、王政復古の大政変を前にして、京都が緊迫した空気に包まれていた時に、京都警備の任にありながら、連日のように烏丸通に家来を遣って、好物の菓子を買わせたり、後々まで、鳥羽・伏見の戦いを、おもしろおかしく子供たちに語り聞かせるといった、好人物だったものである。妻のトミは2歳年下で、無学であったが、何事につけても器用で骨身を惜しまず立ち働く、実直で愛情豊かな女であった。
当時、稲垣家の戸主は、まだ金十郎の父の万右衛門(保仙)であった。彼は当時、満50歳になったところだが、組士として番入りして26年という兵で、特に黒船来航以来、隠岐の警備や大坂の守衛に、あるいは京都の二条城や御所の警護にと、多難な時代の務めを次々と果たしてきた侍である。その彼は、後々までも、昔ながらの気位と古武士風な生活ぶりを捨てないような男であったが、ちょうど2年前から、藩主の「御子様方御番方」を務めてきたこともあって、大の子供好きであった。
そのような次第で、稲垣家は、養女のセツを迎えて大いに喜び、一家をあげて可愛がり、また、身分の高い家に生まれた女の子であるからといって、「お嬢」と呼んで育てたのである。