博士課程1年生のとき、幸運にも大学の掲示板にイスラエルのヘブライ大学への国費留学の案内が貼られていた。当時、私が専攻していた放射線化学の分野では、同大学が最先端の研究を行っていた。周囲の猛烈な反対をよそに、私は迷わず応募し、留学の機会を得ることになった。

留学中、今はエジプト領となったシナイ砂漠へ行く機会があった。小高い丘から眺めても、目に入るのは荒涼たる砂の連なりだけ。その何もない空間を、黒いショールをまとったアラブの女性が黒ヤギを連れて歩いていた。無の世界にただ一点、生きて動いているものがいる。

この瞬間、全身を貫くような衝撃が走った。日本にいたときは、満員電車に揺られる何百人の一人でしかなく、自分の存在感がどんどん小さくなっていく気さえしていた。だが、砂漠に立っていると、心臓の鼓動さえはっきりと伝わる。生きるということは、ただそれだけで素晴らしいことなんだと感じた。

イスラエルの地で私なりに理解したのは、ユダヤ教やキリスト教、そしてイスラム教のように砂漠で生まれた宗教を持つ人たちの強靭さだった。これらの宗教は一神教である。彼らは神と唯一無二の契約を交わし、戒律を固く守って懸命に生きている。

かたや日本人はどうだろう。この本の中では「ユーラシア大陸から少し離れた箱庭のような別荘で何の苦労もなく育った青年」という表現で描かれている。つまり、世間知らずのお坊ちゃんなのだ。

われわれが、「何のために生きるのか」などと悩んだところで、しょせん、砂漠の地で民族紛争を繰り返し、明日さえどうなるかわからない状況で暮らしている人々とは真剣さが違う。ならば、そんなことを考えるのはやめよう。死ぬまで生きるだけだ。とにかく生きて、何かを徹底してやり抜こうという心境になったのを昨日のことのように覚えている。

へブライ大学の留学を終えた私は、さらにイタリアのピサ大学への留学を経て、現在の会社に入社した。働き始めてからも、仕事で厳しい局面に追い込まれるたびにイスラエルでの経験を思い出す。ユダヤの人たちの境遇に比べればたいしたことはないだろうと考えることが、困難を乗り切るための精神的な支えになっているのだ。