国民国家で大衆が帰属意識を失うと何が起きるか

ドイツ出身のユダヤ人女性哲学者・思想家ハンナ・アーレントは、ヒトラー政権から逃れ、1933年にパリに亡命しました。1940年にはフランスがドイツに降伏したので脱出し、1941年にニューヨークに亡命します。

そして1951年、彼女は『全体主義の起源』を著しました。この書は、帰属意識を失って孤立した大衆が、ナチスの人種的イデオロギーに所属感を求めていく過程を分析した内容です。

アーレントによると、19世紀のヨーロッパは文化的な連帯によって結びついた国民国家となっていました。国民国家とは、国民主義と民族主義の原理のもとに形成された国家です。国民主義では、国民が互いに等しい権利をもち、民主的に国家を形成することを目指しました。また民族主義は、同じ言語や文化をもつ人々が、自らの政治的な自由を求めて、国境による分断を乗り越えつつひとつにまとまることを目指す考え方です。

ところが、当時の国民は富裕層と貧困層に分かれており、人々はまとまりのある連帯感をあまり感じられていませんでした。一方でユダヤ人はユダヤ教で結びついており、階級社会からも独立していました。こうした状況から、ヒトラー政権下ではユダヤ人が目の敵にされてしまったのです。

本来、国民国家は領土、人民、国家を歴史的に共有するはずですが、帝国主義の段階では異質な住民を同化し、「同意」を強制するしかありません。こうした状況で危機感が高まると、個人は帰属意識を失って流されやすい大衆の一人となります。

「独裁者に任せきることは、大衆自らが悪を犯していることである」

人は孤立すると無力感にとらわれ、所属感を与えてくれるものに飛びついてしまいます。ナチスはこれを巧みに利用し、民族や血統といった誤った区別で人々に所属感を与えました。

富増章成『21世紀を生きる現代人のための哲学入門2.0 現代人の抱えるモヤモヤ、もしも哲学者にディベートでぶつけたらどうなる?』(Gakken)
富増章成『21世紀を生きる現代人のための哲学入門2.0 現代人の抱えるモヤモヤ、もしも哲学者にディベートでぶつけたらどうなる?』(Gakken)

こうしてナチスはアーリア人の血を引く人間を優遇し、ユダヤ人排除を合法的に進めていきました。

この地上に生きる人は一人ではなく、多数の人々です。その一人ひとりはユニークで、ひとつの枠にくくることはできません。アーレントはこれを複数性と呼びました。このように多様な人が生きる社会においては、公共性が確保されることが重要です。

しかし、私的な共同体の根底にあるのは食欲などの生存本能です(これを「共通の本性」と呼びます)。ですから、世の中がパニックに陥ると、人々は物事を他人任せにしてしまい、公共性が失われがちです。これが、全体主義が登場する要因になるのです。

アーレントは、「大衆が独裁者に任せきることは、大衆自らが悪を犯していることである」と唱えました。再び私たちが似たような過ちを犯さないためにも、政治に関心をもち、積極的に参加していくことが必要といえるでしょう。

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