「一時的なコミュニティ」だからこそのメリット

哲学対話は、学校で授業の一環として行われることもありますが、カフェや書店などで一般市民を対象に開かれることもあります。かくいう筆者も、地域で哲学対話を長く実践してきました。近所に住んでいるわけでもなく、また互いにほとんど素性を知らず、普段の仕事がバラバラな、年齢や性別も多様な人々が、ともに愛だの正義だのを考えている光景は、とても不思議であり、またどこかありえない出来事のようにも思えます。

戸谷洋志『親ガチャの哲学』(新潮新書)
戸谷洋志『親ガチャの哲学』(新潮新書)

同じ場所で何度も哲学対話を行っていくと、だんだんと常連さんが集まるようになり、そこにはある種のコミュニティが形成されていきます。それは、純粋に対話することだけを目的にした共同体です。筆者はそこに、伝統的な地縁コミュニティに代わる、新しい中間共同体の可能性を感じています。なぜならそれは、対話が行われる時間にだけ存在し、対話の終結とともに解散する、一時的なコミュニティだからです。

哲学対話の実践家のなかには、特に、一人で問題を抱えている人、なかなか自分の悩みを語れない境遇にいる人々に向けて、対話の場を創り出そうとする人々もいます。たとえば、幼い子どもをもつ母親たち、少年院の少年たち、日雇い労働者たちなど、それぞれに困難な状況を生きている人々を対象とした哲学対話です。

そうした試みが、もっと多様に、日本中の至るところで生まれていけば、自分の言葉を聴いてくれる人がいない、という根本的な苦境を、ある程度緩和することができるのではないでしょうか。

時間的、経済的余裕は社会が保障するべき

ただし、その際にはクリアされなければならない問題があります。ほとんどの場合、苦境に陥っている人々にはそうした対話の場に赴く余裕がない、ということです。ここでいう余裕とは、時間的な余裕、あるいは経済的な余裕を指しています。仕事の後に、あるいは土日に、わざわざ他者と対話する機会を作れる人、あるいは作ろうと思える人は、そもそも限られているでしょう。

要するに、他者と対話するということ自体が、余裕がなければできないことなのです。そうである以上、その余裕は、社会によって保障される必要があると筆者は考えます。

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