攻撃的な口調は「誰にも声が届かない」悲しみの裏返し

しかし、伝統的な日本社会には、家庭と国家の間に位置するコミュニティ、中間共同体が存在しました。いわゆる地縁と呼ばれるコミュニティがそれに該当します。お隣さん、近所のおじさんやおばさんです。

若い両親が子育てに困っているとき、まず頼ることができたのは、国家ではなくてそうした地域のコミュニティでした。たとえ国家が自分のことを無視しても、近所の人は自分の話を聴いてくれる――そうした信頼が社会のなかに当たり前のように存在していたのです。

しかし、ブログの投稿者に、そうした中間共同体への信頼は皆無です。その非常に攻撃的な口調は、自分の言葉が誰の耳にも届かないことに対する、深い悲しみの裏返しでもあります。そうした絶望が、子育てという、人生でもっともハードな仕事を引き受ける親の心を蝕んでいることは、誠に憂慮するべき事態でしょう。

頼ることのできる中間共同体が存在しない

もっとも、だから伝統的な地縁を復活させよう、と訴えたいわけではありません。伝統的地縁には、それはそれで問題がありました。たとえばそこでは女性の人生の選択肢は著しく限られていました。「保育園落ちた日本死ね!!!」の投稿者が嘆いているのは、まさにその選択肢が奪われていることなのです。

問題なのは、この投稿者にとって、頼ることのできる中間共同体が存在せず、そのために自分の声を聴いてくれる第三者との信頼関係を築けなくなっていることです。そうした信頼こそが、私たちが自分の人生を自分の人生として引き受けるための、条件であるにもかかわらず、です。

中間共同体の喪失は、人口の流動化と、それに伴うセキュリティ意識の高まりによって生じたと言われています。高度経済成長期を経て、日本では核家族化が進行しました。地方の若者が都市部へ流入し、郊外へ居を構え、新たな家庭を築くようになっていったのです。その結果、従来の地縁的コミュニティは成立しなくなり、近隣に住む人々との共同性は希薄になっていきます。お隣さんと挨拶することはあっても、雑談をしたり、情報交換をしたりする光景は、ほとんど見られなくなりました。

窓から顔を出し、隣人に手を振る人
写真=iStock.com/LumiNola
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その結果として生じたのは、近隣にどんな人が住んでいるのか分からない、という不安感です。そうした不安感が、セキュリティに対する人々の意識の高まりを後押しすることになります。