どこにも属さず、誰からも必要とされていないという孤独

セキュリティは国家のシステムによって担われます。たとえば日本では1995年のオウム真理教によるテロ事件を契機として、街中に監視カメラが設置されるようになりました。これは、街の秩序を国家のシステムに委ねようとする態度です。

もちろん、それによって犯罪を予防できたり、犯罪者の迅速な逮捕が可能になったりすることは事実でしょう。しかしそれは、もはや街の秩序がその住人たちによって形成されるものではない、ということを意味します。住人たちは、自分たちが住む共同体を主体的に担うことなく、コミュニティのあり方について何も考えなくてよくなったのです。

社会学者の宮台真司は、こうした事態を「システムへの過剰依存」と表現しています。それは、私たちがあるコミュニティの一員であるという感覚、いわば〈われわれ〉の一人であるという感覚を、空洞化させていくのです。

こんな状況のなかでは、自分の話を聴いてくれる他者の存在を信じられなくなるのは、ある意味当然でしょう。「私」は、どのコミュニティにも所属しておらず、またどのコミュニティからも必要とされていないからです。「私」の話を聴きたがっている人間など、誰もいないからです。

「保育園落ちた日本死ね!!!」の投稿者も、秋葉原通り魔事件の加藤も、そうした背景のなかで孤立に苛まれたに違いありません。

人為的に対話の場を創出する

傾聴には共同体が必要です。しかし、伝統的な地縁的コミュニティは解体しました。しかも偶発的にではなく、構造的に、歴史の流れに従って解体したのです。そうである以上、かつての地縁的コミュニティの復活を期待することは、単なるノスタルジーに過ぎません。私たちは別の可能性を考える必要があります。

一つの方法は、人為的に対話の場を創出することです。つまり、もともとは存在していなかった、対話することを目的としたコミュニティを、新たに創り出すのです。

その事例として、哲学対話の営みを挙げることができます。哲学対話とは、欧米で発祥した対話型ワークショップの形式であり、数人から数十人の人々が、特定のテーマについておよそ2時間かけて語り合う、というものです。特に結論を出さなければならないわけでもなく、合意に至る必要もありません。ただ、参加者は自分の思っていることを、思うままに話せばよい、ということになっています。

「哲学」という名前はついていますが、別に哲学的な専門知識に言及しないといけないわけではありません。たとえば、「愛とは何か」というテーマなら、自分が経験してきた愛について語り合い、そこから、私たちが常識としている愛の概念が問い直されることになります。そのようにして、問いそのものが刷新され、思考の深まりを体験できるということが、哲学対話の魅力です。