30歳年上の秀吉と結婚、なぜか戦陣で妊娠

このように浅井長政の3人の娘のうち、まず三女から結婚させ、次に次女を結婚させたのは、秀吉が茶々を側室にするための長期戦略であった。こうなると、嫌がっていた茶々にしても、これはやはり時の権力者である秀吉になびかざるを得ない。

茶々が側室になったのが、秀吉52歳、茶々22歳の時のことである。懐妊した時に子供を産む場所として建てられたのが淀城ということで、その後は淀殿と呼ばれる。お産用に城をプレゼントされた女性は日本史の中で、彼女が初めてだろうといわれている。

そして、23歳の時に長男鶴松を産む。この頃淀殿は小田原の陣にも随行していた。子供を産んだ淀殿が大坂城へ移ると、正室の高台院は大坂城から去っていった。

ただし、この鶴松は3歳で病死してしまう。次の懐妊は文禄の役の時であった。この時も淀殿は肥前名護屋まで秀吉に随行していた。なぜか彼女は戦陣で妊娠するのである。

大坂城で秀頼を産んだ淀殿は、伏見城の広丸という西の丸に住み、秀吉からはおふくろ様と呼ばれた。秀吉の死後は大坂城に入る。

淀殿は難攻不落の大坂城を落城させた張本人

そして、淀殿は49歳であのような死に方をする。秀頼は23歳であった。しかし、歴史上これほどまでに見事に消滅した立派な家系はなかなか見当たらない。だいたいはどんな名門が滅びても、誰か助かるのが歴史の常なのだが、豊臣家は助からなかった。ただ、家康が別格として扱った高台院の実家の木下利次のみが残った。

淀殿はきわめて傲慢だったという説がある。

しかし別説によれば、「方広寺鐘銘事件」で呪いをかけたなと家康側から言い掛かりをつけられた時、豊臣家を弁護する片桐勝元が淀君を関東に人質に出そうとしたことがあるぐらいだから、それほど傲慢ごうまんだったわけでもないという説もあるが、実際のところは不明である。

ただ講談種になったような資料などからすると、淀殿は真田幸村などの忠告を聞かずに大坂城を落城させた張本人であったようだ。なぜならば、大坂城は本当に難攻不落だったからで、冬の陣の時はむしろ攻めあぐんで、徳川側はお手上げ状態だったのである。それで概説したように、淀君の妹のお初(常高院)や家康側室の阿茶局などを大坂城内へと送り込み、和議に持ち込んだのだ。