織田信長の妹であるお市の方の3人の娘(茶々、お初、お江)は、それぞれ波瀾万丈の人生を送った。英語学者・評論家の渡部昇一さんの著書『決定版・日本史[女性編]』(扶桑社新書)より、一部を修正して紹介する――。

信長の姪として生まれた「茶々、お初、お江」

淀君の父親は浅井長政で、母親は織田信長の妹お市の方である。浅井長政が信長に攻められ近江小谷城が落ちる際、お市の方は茶々(後の淀殿)、お初、お江の3人の娘を連れて城を脱出、お市の方輿入れから帯同してきた藤掛三河守に守られ、信長の陣に避難した。

淀殿(茶々)
淀殿(茶々)(画像=奈良県立美術館収蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

この3人の女子は信長の弟信包に養育され、清洲城で暮らした。そして、本能寺の変(1582年)が起き、その後の清洲会議において、「信長の跡継ぎをどうするか、領地をどう処分するか」などが論じられた。その時、三男信孝の案で、お市の方は柴田勝家と結婚することになり、3人の女姉妹は越前北ノ庄に向かった。

母・お市の方は夫の勝家とともに自刃した

ところが、天正11年(1583)の賤ケ岳の戦いで勝家は秀吉に敗れてしまう。お市の方は勝家に逃げろと命じられたが、「一緒に死にます」と自刃する。戦国の世、やはり仲の良い夫婦は一緒に命を終えたし、それが夫に殉じる女の道だったのであろう。

また、お市の方としても、そんなに何度も嫁に行かされるのは嫌だという気持ちもあったかもしれない。当時の女性はまるで将棋の駒のように扱われており、もううんざりだったとも考えられる。

残された3人の娘は秀吉が引き取った。

次女のお初は、近江の京極高次に嫁ぎ、化粧料として秀吉から二千五百石を与えられた。お初19歳、京極高次25歳。京極高次の母は浅井長政の妹だから、いとこ同士の結婚であった。