石田三成が、天下人になろうとする徳川家康を止めるため起こした関ヶ原の戦い。しかし、その三成が敗れ、豊臣秀頼の母・茶々は窮地に立たされた。歴史学者の黒田基樹さんは「当時の茶々は32歳。世間ではこの戦いを家康と豊臣家の戦いと見ていたが、茶々はどちらにも肩入れしないという立場を取り、戦後すぐ家康に書状を出した」という――。

※本稿は、黒田基樹『羽柴家崩壊 茶々と片桐且元の懊悩』(平凡社)の一部を再編集したものです。

狩野貞信作、彦根城本「関ヶ原合戦屏風」
狩野貞信作、彦根城本「関ヶ原合戦屏風」(画像=関ヶ原町歴史民俗資料館所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

15歳の時、32歳上の秀吉から「妻に」という申し出を受けた

信長の死後、茶々の母市は、織田家宿老の柴田勝家に再嫁することになり、岐阜城で婚儀をあげたうえで、勝家の本拠の越前国北庄城に移っていき、娘の茶々らもそれにしたがって北庄城に入った。しかし天正11年4月、秀吉と勝家が対戦した賤ヶ岳合戦の結果、北庄城は落城、柴田勝家は市とともに自害した。茶々ら姉妹は、今度は秀吉に庇護されることになり、安土城に置かれたとみられている。

当初から秀吉の庇護をうけていたとみられているが、それは母市の要請であったという。秀吉は茶々らを引き取った直後に、茶々に使いを出し、その趣旨は「私(御主)と一緒になっていただきたい」というものであった。茶々は15歳(史料表記は「13」だが誤り)であったが、「御知恵よく、御内証無沙汰の様子、御聞き及びも御座候ゆえ」と、知恵も廻り、秀吉の内意は決定ではないと聞いていたので、「このように親なしになって、秀吉を頼みにするからには、どのようにも秀吉の指図通りにするが、先に妹たちの縁組みを調えていただき、そのうえで秀吉とのことはどのようにでもしていただきたい」と返事したという(「渓心院文」)。

茶々は賢い少女で秀吉に妹たちの縁組みを優先させた

ここからは、茶々が賤ヶ岳合戦後、秀吉に引き取られるとすぐに、秀吉の妻に迎えられることになっていたことがわかる。この秀吉からの要請に対して、茶々は、まだ15歳であったものの、知恵が廻った人物であったらしく、秀吉の申し出をうけいれるかわりに、先に妹たちの縁組みを取り計らうことを要請している。茶々は長女として、まずは妹の立場の安定を図ったものととらえられるであろう。茶々は決して凡庸な人物ではなく、むしろ賢い部類にあったことがわかる。

また、茶々がここで、親のない身となってしまったので、これからは秀吉を頼るしかない、と述べていることは重要である。茶々の人生を考えるにあたって、この「親がいない」ということが、その後の人生を決定的に規定した、極めて重要なキーワードとして受けとめられるからである。