茶々が32歳の時、権力闘争の末、関ヶ原の合戦が起きる

その後、翌年の関ヶ原合戦にいたるまで、政権内では権力闘争が激しく展開される。慶長4年のうちに、「大老」筆頭の徳川家康が、伏見城に入城して事実上の「天下人」の地位につき、次いで大坂城西の丸に入って秀頼との政治的一体化を遂げて、単独による執政体制を確立させている。そうして慶長5年を迎えて、「大老」上杉景勝を謀叛によるとして討伐軍を発向させ、関ヶ原合戦へといたることになる。この時、茶々は32歳になっていた。

この合戦において、秀頼を後見する茶々の行動がみられるのは、合戦前日にあたる9月14日、近江大津城の開城講和を成立させた時であった(桑田忠親『豊臣秀吉研究』)。

大津城の城主は、茶々の妹初の夫であるとともに、秀吉妻の一人であった京極竜子(松の丸殿)の兄の京極高次である。高次は江戸方に味方し、大坂方から攻撃をうけていて、落城寸前の状況にあったなか、京都に在住していた北政所寧々と、大坂城の茶々が、京極竜子救出を名目にして両軍に講和を勧告し、成立させたものであった(跡部信『豊臣政権の権力構造と天皇』)。いわば、羽柴家の親類の地位保全のために、秀吉後室の北政所と茶々が奔走したものとみることができるであろう。

家康率いる東軍が勝った後、茶々が取った行動とは

合戦後の動向として知られるのは、21日、大津城に滞在していた家康に、秀頼とともに書状を出していることである。すなわち翌22日付けで、家康側近の本多正純が、江戸留守居衆に宛てた書状のなかで、秀頼と茶々(「御ふくろ様」)から書状が送られてきたことが触れられていて、それによって「大坂城のこと」(「大坂の儀」)も大方数日中には片づくであろうと述べられている(松尾晋一「九州大学所蔵『堀家文書』について」)。もっとも、秀頼からの書状といっても、わずか8歳にすぎなかったから、自身の意志によるものではなく、いうまでもなく茶々の意向によって出されたものに違いない。

書状の中身まではわからないものの、時期や状況から推測すると、合戦での江戸方の勝利の報告をうけたことに応えて、家康の戦勝を祝するものであったことは想像に難くないであろう。それはすなわち、茶々と秀頼が、江戸方と大坂方の抗争に対して、家康支持の態度を示すものであったととらえられる。