切り落とされた首は獄門台に3日間晒された

首討役は町奉行所の当番同心がつとめることになっていたが、江戸では麴町平河町の浪人山田浅右衛門が非公式につとめて以来、代々山田家の当主が執行することが多かった。

死刑囚が下手人の場合は、遺体は引き取り人に下げ渡された。死罪の場合は、遺体は刀の切れ味を確かめる試し切りなどにされることもあった。また、罪人の財産は没収された。

遺体は捨て置きということで、本所や千住の回向院に葬られた。獄門の場合は、切り落とした首を水で洗い、俵に入れて青竹を貫いて千住の小塚原や品川の鈴ヶ森の刑場に運び、獄門台のうえに3日間晒したのである。

主殺しや放火など、当時の重罪は、今のべたような処刑ではなく、もっと残酷な方法で公開処刑となった。それが磔、火焙り(火刑)、鋸引である。

これらの刑は千住の小塚原か品川の鈴ヶ森の刑場で執行された。まずは磔について説明しよう。

6人から槍で20~30回突き刺される磔刑

牢屋敷から出された死刑囚は、刑場に向かう途中、この世の名残として、最後の食事が許され、好きなものを飲み食いすることができた。代金は検使役が自分の懐から出すことになっていた。

いよいよ死刑囚が刑場に到着すると、罪木と称する柱に体を縛りつける。罪木は長さ二間の太い柱に手と足を縛る二寸角の二本の横棒が交差した形になっている。

ここに荒縄で罪人を縛りつけてから三尺余り掘った穴の中に罪木を立てかけ、地面をよく突き固めて倒れないようにする。

検使役は、部下の同心に命じて死刑囚に名を尋ね、相違なき旨を確認した上で刑の執行を命じた。

白衣に股引、脚半、尻端折姿に縄襷をかけた突手6人のうち、2人が槍を握って左右に分かれ、死刑囚の目の前で槍の穂先を交差させる。これを見せ槍と呼ぶ。

その後、二尺ほど下がって、いきなり「ありゃ、ありゃ」と声をあげながら、槍を罪人の脇腹に突き刺した。槍を抜くとき、血が柄に伝わらぬよう必ずひねりを加えた。およそ二十数回から三十回ほど交互に突く。ひねりを加えるため、傷口が大きく穴をあけ、そこから血液だけでなく臓物や食べ物なども飛び出すため、そのむごさにいかなる剛胆な見物人も青ざめたといわれる。また、すぐに死ねないため、罪人の苦痛は甚だしいものであった。