江戸時代の犯罪者はどのような刑罰を受けたのか。歴史作家の河合敦さんは「死刑は罪の軽重に応じて6種類あった。最も重い刑は、主人を殺害するといった大逆罪に限定された鋸引だが、あまりに残酷だったために実際の刑として成立しなくなった」という――。

※本稿は、河合敦『日本三大幕府を解剖する 鎌倉・室町・江戸幕府の特色と内幕』(朝日新書)の一部を再編集したものです。

鉄格子を握る囚人の手
写真=iStock.com/Hiob
※写真はイメージです

首を刎ねる斬首刑だけでも3種類あった

正刑のうち最も重いのが死刑である。だが、その死刑も罪の軽重に応じて「下手人、死罪、獄門、磔、火焙り、鋸引のこぎりびき」の6種類に分かれていた。

下手人、死罪、獄門の3種は、いずれも刀で首をねて殺す処刑方法である。

その違いは、殺された後にある。

下手人は単に首を切り離されるだけだが、死罪は遺体を試し切りにされたり、そのまま放置されたりする。獄門は、台の上に首を晒されるという恥辱を受けた。

死刑(打ち首)は、伝馬町牢屋敷内の東北隅に設置された切場(処刑場)で執行された。下手人は昼間、死罪は夜と決まっていたようだ。

牢獄から引き出された死刑囚は、牢庭改番所ろうていあらためばんしょへ入れられた。瓦葺きで平屋建ての小さな建物である。室内には役人などの関係者がずらりと並んでおり、死刑囚は縁側に腰掛けている検使与力の前に引きすえられ、鍵役が名前や肩書、年齢などを確認し、本人が相違ない旨を告げると、検使役が罪状と判決を記した文書を読み上げる。読み終わると、死刑囚は「おありがとう」と言わなくてはならなかった。

死刑囚は土壇場に座らせられ、執行を待つ

その後、死刑囚は引き立てられて切場へ連れていかれる。このとき牢の前を通過するが、各牢の前に来ると、牢名主代が哀悼の言葉をかけるのが慣例だった。

切場の入口で死刑囚は半紙を二つ折りにしたもので目隠しされた。これを面紙と呼ぶ。その後、土壇場に座らせられる。土壇場は斬首になる台で、その前には大きな穴が空いている。ここに首が落ち、血が流れ出るのである。

死刑囚が着座すると、切り縄の背結びや喉縄が小刀で切り放たれ、執行人たちは着物を引っ張って両肩までずり降ろし、手をそえて首をのばし、さらに死刑囚の両足を強く後ろに引いて身体を前に出した。

死刑囚の首に添えた介助者の手が離れた瞬間、首討役は刀を振り下ろした。