【塚本】父の会社に人が集まったのは、父の妹の夫で当時、八商の先生をしていた木本寛治の口利きも大きかったようです。

【北】木本自身も後に工場長として和江商事に加わりますね。入社した川口は営業のリーダーとして会社の成長を支え、一方の中村は財務面で会社を切り盛りし、晩年には京都証券取引所理事長にまでなります。社員5人ほどの個人商店時代に、三国志の関羽と張飛のような傑出した2人を仲間にできたのだから大したものです。それには幸一個人の魅力だけではなく、有言実行で夢を実現する力も必要になります。

【塚本】それで言うと、父は創業すぐから「世界を目指す」と言ってました。当時は給料の遅配があったぐらいなので、社員の誰も信用しなかったけれど、あるとき「十年一節五十年計画」というのを発表するんです。「最初の10年で国内市場を開拓、確立し、次の10年で国内に確たる地位を築き、次の20年で海外市場を開拓して、最後の10年で世界企業になる」と宣言した。中村も川口もそれ聞いて「ほんまかいな」と半信半疑だったはずですが、「おもろそうだから、ついて行こう」と思ってくれた。しかもその計画が、少しずつ本当に実現していきました。

【北】それこそが、塚本幸一が持っていた稀有な構想力なんだと思います。同じく京都発祥の世界的企業・京セラの創業者、稲盛和夫は長期の事業計画を立てないことで知られています。それは、半導体のような変化が激しい業界で長期計画を立てても、そのとおりに物事が進む確率は低く、逆に計画に縛られる弊害が大きいからです。しかし塚本は敗戦で焦土になった日本を見て、これから人々の暮らしは豊かになって洋装化が進んでいき、50年後には再びアメリカと経済で戦えるまでに成長するだろうと信じていた。

作家の北康利氏
作家の北康利氏

“女傑”たちを使いこなしたのも幸一ならではの見事な手腕

【塚本】その夢を実現するために「女性」をビジネスの対象にした、というのが慧眼だったと思います。日本中の男性が敗戦に打ちひしがれる中で、女性たちの多くは戦争が終わり、いち早く元気を取り戻していました。もんぺや防空頭巾を脱いだ女性は、和服より着るのが簡単で、おしゃれな洋服を楽しむようになるだろう。そうなれば下着も洋風のものを身につけるはずだ、と考えたんですね。

【北】幸一は女性の下着という「男子一生の仕事」とは誰も思ってもいない商品を広めることで、日本中の女性を幸せにしようとした。かつて財界で主流を占める会社といえば、鉄鋼やエネルギーなど重厚長大産業ばかり。しかし幸一は女性のファッションという生活様式を変えることで、日本の文化そのものをアップデートした。そうした実績をひっさげ、京都商工会議所会頭や関西経済連合会副会長といった財界の要職を歴任します。そこが何より経営者として優れていた点であり、生き方としてカッコいいと思うところです。