「私も鑑別所に7回入って少年院にも2回行った」

私も食い下がって、このままだといずれ鑑別所や少年院に入ったりすることになってしまうかもしれない、と伝えると、「ふん。鑑別所に入ったら悪いんかね? あのね、私も鑑別所に7回入って少年院にも2回行った。それで私は色々なことに気が付いた。だからあの子だって、そうなったらその中で気付くでしょ」と言うのです。

言葉に詰まりながらも、私も必死です。

確かにお母さんは鑑別所に行って少年院に行って気付いたかもしれないけど、この子も同じとは限らないでしょう。どちらにも行かせずに気付かせることもできるかもしれないし、その間に事故に遭って命に関わるかもしれないじゃないかと。

「一般社会の常識」が正解とは限らない

だからこのままじゃダメだと私が言うと、母も母であんたに何ができるの……と、気づいたらすっかり敬語を忘れ、ため口で必死に2時間やりとりを繰り返していたのです。

すると、最後には「はいはい。あんたも大概しつこいね。ならもういい、好きなようにやれば」と言ってもらい、何とか支援を受け入れてもらうことができたのです。

電話を切ったときには、受話器が当たった耳が痛くなるほどでした。

受話器が当たった耳が痛くなった(※写真はイメージです)
写真=iStock.com/byryo
受話器が当たった耳が痛くなった(※写真はイメージです)

敬語で話すなど、一般社会の常識が、私たちの世界では、正解とは限りません。敬語が、いかにも行政的というような冷たさや、人と人の距離の遠さを感じさせ支援を妨げることもありうるのです。

これは私にとって、とても面白い発見でした。

支援者にとっては、言葉の使い方・選び方、見極めのテクニックも重要な要素の一つです。