年商3000万円を超えた年も

創業したのは88年。翌89年に法人改組し、JR上野駅の近くに工房を構えていた。

「パンフレット、リーフレット、ポスター、折り込みチラシ、会社案内、帳票類などのデザインと印刷を手がけていました。年商では3000万円を超えた年もあったんですよ」

それなりに順調な商いを続けていたのだが、08年のリーマンショックで一気に需要が落ち込んだ。追い討ちを掛けるように東日本大震災も発生。受注、利益とも低水準をウロウロする状態に陥る。

「企業の広告宣伝費削減、ペーパーレス化が大きかった。紙媒体よりネットで広告を打つというのが伸びてきたんだ。これが痛かった」

意外なところでは少子化の影響も。

「印刷屋と少子化の間に何の関係があるんだと思うでしょうけど、うちは公立の小中学校の文集作成や卒業アルバムの制作も委託されていたんです。ところが子どもの数が減っていくものだから数は落ちる一方でした」

学校の統廃合もあったので作成部数は90年代半ば頃のほぼ半分。売上げで数百万円の減少という落ち込みようだった。

「一部外注に出していたものを内製化する。印刷用紙やインクの仕入れは価格の安い業者に変更するなどして立て直しを図ったのですが、焼け石に水でした。同業他社との競争も激しくなって立ち行かなくなってしまった」

18年3月の決算は300万円近い赤字を計上。過去の設備投資に伴う借入金返済も重荷に。受注は更に減少、品物を納めた会社が倒産して代金の未収が数件発生。とうとう資金繰りがつかなくなり事業継続を断念し、自己破産を申請したという顛末てんまつだ。

「負債は1200万円近かった。だけど会社の金庫は空っぽ。当座預金の残高は数万円。わたし個人の資産もほとんど吐き出していたからどうにもならなかった」

自己破産と債務免責はあっけないほど簡単に認められ、どうにか借金からは解放された。

用務員とドラッグストアの二足の草鞋で暮らす

「生きていかなきゃならないからクヨクヨしてる場合じゃないでしょ。息子も娘も学校を卒業していた。妻と2人で暮らす収入があればいいと思って職探しを始めたんです。働けば社会との接点も持てるから」

ハローワークの紹介だったが、面接はあっさりしたものだった。

「詳しい職務経歴書なんて求められなかった。ホワイトカラー的な仕事ならともかく、契約の用務員採用なんてこんなものですよ」

給料はというと、当然だが安い。賃金は日給制で1日8400円。8時間労働なので時給にすると1050円、東京都の最低賃金とほぼ同じという額。

「月に24日出勤だと約20万円。残業はあっても月7、8時間なので支給額は21万円ぐらいですね」

通勤のための交通費は出るが家族手当や住宅手当などは一切ない。世間がボーナスシーズンでも関係なし、寸志も出ない。退職金もない。

「まあ、仕事は楽だからね。裏口の通用門で受付をするのですが、来訪者は1時間で2人ぐらいです。天気の悪い日だと2時間で1人も来ないことがある。蛍光灯の点灯管を取り替えたり、トイレのペーパータオルを補充したりするのも仕事ですが、自分が経営者だったとしてもこの仕事だったら労賃は20万円がいいところだと思う」

支給額が約21万円だとすると手取りは17万円台の半ばぐらいか。夫婦2人だけとはいえ、これだけで生活していくのは至難の業だから終業後に副業に励んでいる。

「2つ目の職場は自宅最寄り駅周辺のアーケード街にあるドラッグストアです。本業は17時で終業なんです。なので残業のつもりでやることにしたんだ」

ドラッグストア
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やることはレジ打ち、商品棚の補充、閉店後の後片付けなど。

「月火水金の4日は18時から21時30分までの3時間半。土曜日は正午から16時までの4時間働いているんです。こちらの時給は1100円です」

先月は79時間働いたので8万6900円の収入だった。本業の給料と合わせると使えるお金は26万円ほど。

「倒産の後始末がひと段落してから妻も働きに出るようになりまして。日本郵便の集配局で郵便物の仕分けやゆうメールの配達下準備などをやっています。彼女の月収が10万円ほどあるので助かっています」