「中流層の男性権力者」を批判するメカニズムがない

――筆者はニューヨークに移住して何年もたちますが、いまだに、東京のJR駅のホームで、泥酔したスーツ姿のサラリーマンや吐瀉としゃ物を必死によけながら歩く夢を見ます。日本社会ではそうした行動が大目に見られているという事実について、どう思いますか。

実は、私もまだ慣れていない。彼らの多くは中流層の男性ではないか。そして、日本社会には、彼らに行動を慎むよう伝えるメカニズムがない。なぜか――。彼らこそが、日本(企業)で「権力」を握っている人々だからだ。

それゆえ、飲みすぎても見逃してもらえるのだろう。その結果、今夜も誰かが吐くほど泥酔するだろうという前提が日本社会で強化され、そうした飲酒慣行が根づいた。日本の飲酒文化を根底から変えることが難しいのは、そのためだ。

(前編で話したように)日本の飲酒慣行は、もともとサラリーマンが主役だったが、今や若い女性にも広がるなど、日本の生活の一部として根付いている。

「酔っていたから」という免罪符

――前編で、お酒に対する日米の考え方の差を話してもらいましたが、特に、一般のビジネスマンの飲み方は、なぜ日米で大きく違うのでしょう? 文化の差でしょうか。

文化がひと役買っているのは間違いない。おそらく、社会全体のダイナミクス(力学)が関係しているだろう。

自分の行動が招いた結果に対して責任を持つということに関し、アメリカでは昨今、大きな動きが見られる。アメリカ社会で権力と影響力を持ってきた特定の層、つまり、私のような中流層の白人男性も自分の行動に責任を持つことが求められるようになった。

ひるがえって、日本社会ではどうか。正社員として定職を持つ年長の中流層男性、特にホワイトカラー層が自分たちの行動にどのくらい責任を持つよう求められているか。例えば、忘年会や新年会で飲みすぎ、店や駅のホームを汚した場合、その「結果」に対して、どのくらい責任を負っているだろうか。

もちろん、ほかの国でも、その場から逃げてしまおうと考える人もいるだろう。自らの行動に責任を持たなければならない社会構造の構築は、日本だけでなく、どの国にも必要な普遍的問題だ。

とはいえ、日本では依然として、「酔っていた」ことを言い訳に放免される事柄が多いように見える。