ゼロから原子炉を開発した経験

あのような先進的な原子炉を設計できるチャンスというのは滅多にない。私たちの後から入った技術者が携われるのは、「もんじゅ」の7次設計なり、14次設計なり、21次設計という具合である。許可がなかなか得られないものだから、ひたすら安全審査の繰り返しで、同じものを縮小コピーするような開発しかやらせもらえない。青焼きから描くフェーズではないから、さぞかしつまらなかったことだろう。

福島第一原発の事故調査で40年ぶりに原子炉を見たが、今原子炉に携わっている若手の技術者よりも私のほうが批判的に事故状況を分析できた。

なぜなら私には原子炉をゼロから開発した経験があるからである。

現役の技術者は、言ってみれば、マニュアル本で操縦方法は学んではいるが、どういう原理で空を飛ぶのかがわかっていないパイロットのようなものだ。出来上がった原子炉しか知らないから、設計思想や設計原理といった本質的なところまで考えが及ばない。

だから今回の私の事故調査に関わった東電や日立、そして東芝のエンジニアは「大前研一は、なんでこんなに知っているんだ?」と驚いたと思う。最初は「わけのわからないコンサルタントが自分たちの粗を探しにきやがって」という気持ちだったかもしれない。しかし、「これが絶対におかしい。もっと詳しくここのデーターを」と私が調査を依頼していくうちに、途中からは自分たちの知っていることを全部出してくれるようになった。

今にして思えば、私は日本の原子力開発の一番いい時期に日立にいられたのだと思う。ほとんど白い紙の上に書くことができたし、エンジニアの集団としても仲間は優秀だった。動燃が突然「ウラン濃縮をやる」と今まで聞いたことがないようなことを言い出しても、たった一週間で調べ上げ、提案書を仕上げて持っていく。そういう能力は抜群だった。マッキンゼー時代と比べても、遜色ない人材が集まっていた。

そんな連中が国産原子炉をつくるという希望に燃えて突き進んだのである。ところが原発に対する風当たりは徐々に強まり、住民の反対運動で原発の設置は難しくなってくる。政府の干渉も強まり、安全審査を何重にもやるようになって、開発現場から活気や創造性はどんどん喪失していった。

日立を辞めてから20年後くらいして昔の仲間を訪ねたら、当時、私と一緒にやっていた人たちは国産原子炉への情熱も、エンジニアの夢も、フランスに負けてたまるかという意地も、すっかりなくしていた。退職金を前借りして家を建ててしまったから身動きは取れないし、定年退職後もそこに住むしかない。

「蘭の栽培を始めたんです。大前さん、出来を見てってくださいよ」

20年前、キラ星のようだった原発技師の一人は蘭の栽培にわずかな情熱を傾けていた。わびしさを覚えながら、自分の選択は間違ってなかったんだという思いが頭をよぎった。

次回は「マッキンゼー1年生」。6月25日更新予定です。 

(小川 剛=インタビュー・構成)