わがエンジニア時代の総括

日立(そして日本)の原子力技術「青春時代」は、大前さんの20代とぴたり重なる。写真は日立製作所日立事業所外観。(編集部=撮影)

日立でのサラリーマン生活は1970年の8月21日から72年の8月20日まで、きっかり2年間である。

新婚だったこともあって、日々の生活はとても充実していた。風光明媚な海と山に囲まれて自然を大いに満喫できたし、音楽も夫婦して日立のオーケストラに入って週1ペースで練習に通った。

日本企業ならではの、課単位の社員旅行にも参加した。裏磐梯へのスキー旅行では、カミさんが足を折って大変な目に遭った。しかし、そこは社宅の共産社会である。「大前さんはお仕事をちゃんとおやりなさい」と近隣の奥様方が手分けをして日替わりでカミさんの面倒を見てくれた。

近隣の人たちとの絆は相当に深くて、日立を辞めた後も会社のテニス大会に参加したりして、ありがたいお付き合いをさせていただいた。

仕事に関してもきわめて充実した2年間だった。「勤労課」との確執はつきまとったが、最後は煩わしいというより、彼らの教条さを相手にするのが結構楽しかった。

原子炉設計の面では、炉心の基本設計から構造設計、流体設計まで、あらゆる場面で責任のある仕事をやらせてもらった。

「設計はごくつぶし」と言われるが、解析方法をはじめとした特許は数多く取得したし、動燃などからさまざまなプロジェクトを分捕ってきて会社の収益に貢献できたと思う。

日立はエンジニアを育てるにはいい会社である。自分の担当した分野に関しては「7年で日本一になれ」「10年で世界一になれ」「なれないならやめろ」ということで、何しろ気合が入っていた。

動燃の会議などに出ると、東芝や三菱の技術者はほとんど40代。余所の会社に比べたら日立の技術者は10歳以上若かった。日立では年齢のハンディに関係なく、大事な仕事を任せられたのだ。

時代も良かった。

「もんじゅ」の設計などは非常にアーリーステージだったので、いろいろな設計のパラメーターを決めなければならない。すでに決められたものの安全審査をするのではなく、安全性の基準まで自分たちが手探りで決めていく。すべてゼロから設計できるのだから、これは実に楽しい作業である。

「もんじゅ」は二次冷却系(炉心を経由せずに熱を除去する冷却システム)の東芝のポンプがナトリウム漏れを起こして火災報知機が発動してから、現在も全面停止したままになっている。

炉心に問題があったわけではないのに、「もんじゅ」の廃炉がほぼ決まりそうな今の情勢は残念でならない。私が日立にずっといたら、「もんじゅ」の設計主任として引退を看取ることになったのかもしれない。