育児は人を成長させる「研修」だ

優秀な人は、さまざまな問題を持ち込まれても、原因を分析して正しい対処を考え、次々と処理することに慣れています。ところが子育ては、「原因が分からない」「処理できない」「正解がない」……「なんだか分からない問いかけ」が、日々目の前で新たに発生し続けるわけです。

「育児」とは、人の成長にとってとてつもなく重要な「研修」だと私は考えています。子育てにおいて生まれる一つひとつの課題に対処することは、会社の命運を左右する新規事業を任されるようなもの。

藤原和博『60歳からの教科書』(朝日新書)
藤原和博『60歳からの教科書』(朝日新書)

やがて赤ちゃんの時期を脱し、3〜5歳頃になると、子育ての方針そのものに夫婦間のずれが広がっていきます。どこの幼稚園に通わせるか、習い事は何をさせるか、英語の勉強を早くからやらせたほうがいいのか……などなど、ここでも正解は存在しません。

進学問題ではそのギャップがさらに大きくなるでしょう。東京を始めとする日本の都市部では、ここ10年ほどで中学受験ブームが過熱し、一流と言われる私立中学に合格させたいなら、小学3〜4年生頃から進学塾に通わせることが「常識」になっていると聞きます。

しかも塾に通わせている間は、送り迎えや夜のお弁当作り、宿題のチェックなど、母親がぴったり横について面倒を見なければ、合格はおぼつかない、とも。

私個人の意見を言わせてもらえば、そんな状況は「異常」だと思いますが、我が子の将来の可能性を最大限に広げておきたい、という親心も分からないではありません。

夫婦は「あ、うん」で通じ合う相手ではない

塾だけではありません。習い事も、野球かサッカーかスイミングかクラシックバレエかで、両親の方針が対立するかもしれません。ピアノやバレエのような習い事は、母親自身が子どもの頃に習いたかったけれど習えなかったり、やっても上達しなかったりした経験があるかもしれません。自らの「リベンジ」のために我が子に課すなど、子どもの意思とはなんら関係ないことも起こりそうです。それが、夫婦のいさかいの種になることもあるでしょう。

子育てというのは、そんな子どもの成長に伴う、あらゆる局面での「無限のベクトル合わせ」のことを呼ぶのです。

初めから、すべての子に共通するような「正解」はありません。

だからこそ夫婦関係は、「基本的に違う歴史と文化的な背景を背負った他人同士の関係」と考えたほうがいい。「身内」だから「あ、うん」の関係で通じ合って当然と考えるのではなく、むしろ通じなくて当然と考える。通じない「他者」と共同プロジェクトを遂行しているんだ……そう考えたほうがうまくいくと思います。

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