「SNSはいっさい見ない」とする村上春樹さんのインタビュー記事が話題になっている。文筆家の御田寺圭さんは「SNS時代の到来前に確固たるポジションを築いた村上春樹とは違い、われわれは『まずい文章』ばかりのSNSで生きていくしかない。いわばドブ川で育った魚なのだ」という――。
プラスチック廃棄物で汚染された海にいる魚
写真=iStock.com/narvikk
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村上春樹はSNSをいっさい見ない

村上春樹はSNSを一切見ないという。

曰く、なぜなら、そこには人生を豊かにする「いい文章」がないからだ。

Q15.SNSはいっさい見ないそうですが、その理由は?
大体において文章があまり上等じゃないですよね。いい文章を読んでいい音楽を聴くってことは、人生にとってものすごく大事なことなんです。だから、逆の言い方をすれば、まずい音楽、まずい文章っていうのは聴かない、読まないに越したことはない。
ユニクロ LifeWear magazine『村上春樹に26の質問』より引用

ひとりの書き手からすれば、正直にいえば耳が痛い。

私はつねづねSNSこそが、人びとの怒りや憎悪を増幅させ、なおかつこの社会の不和や分断をもたらしているものであるとして、このツールとの距離を取るよう申し立ててきた(※)。しかしながら、肝心の私はというと、いち文筆業者としては、SNSなしには自分の表現活動を成立させられないでいる。

主として記事を掲載しているnoteにせよ、プレジデントオンラインをはじめとするウェブメディアにせよ、あるいは書籍やラジオにせよ、ひとりの表現者としての私の仕事はすべて、いまやSNSとは密接不可分の存在となってしまっている。SNSがあるからこそ記事が多くの人の目に留まり、しばしば大きな議論を呼ぶシナジーを獲得していることは否定しようもない。

(※)プレジデントオンライン『「cakesは叩かれて当然」と思う人が、ネットを“死んだ土地”に変えている』(2020年12月24日)

村上春樹のいう「まずい文章」が溢れる世界から抜け出せない矛盾を抱えたまま、しかしそれでも、なにか価値あるものを生み出そうと必死に励んでいる。

文筆家はPVを、音楽家は再生数を気にするようになった

村上春樹がいうところの「まずいもの」に満ち満ちた、汚れた泥の川に浸かった日々を送らざるをえない、ひとりの表現者としての立場からすれば、SNSが見えないくらいの距離に遠ざかって、しかもそれで生活を成立させられているということに、凄さとなにより羨ましさを感じる。私を含む比較的若い世代の表現者は、SNSに多かれ少なかれ依存しており、これによってますます「俗物」的に生きなければならなくなった。

文筆家はPVを気にするし、アーティストはダウンロード数を、ユーチューバーは再生数やチャンネル登録者数をそれぞれつねに気にしなければならない。より近くなったファンの声をダイレクトに受け取り、より多くの人から喜ばれるよう「マーケティング」することにも余念がない。積極的にSNSを運用して告知・宣伝し、ひとりでも多くのオーディエンスを引きつけることを強いられる。