「SNSで失望する」という悲劇

ひと昔前まではいくつも作品を出していたらしいが、しかし寄る年波には抗えず第一線にはいられなくなった人が、若者たちがすなるSNSといふものをしてみむとてするなり――と、死地に活路を見出そうとすることもまたよくある話だ。しかしそのような試みが首尾よく運んだという事例は驚くほど少ない。

……いや、それどころか、いままで世俗的なメディアから遠ざかっていたからこそファンが知らずに済んでいた、その表現者のリアルな「人となり」を《無編集で》まざまざと見せつけられ、長年のファンたちの心が激しい認知的ストレスに晒されることもままある。「かつて好きだった作家やアーティストがいまどうしているか気になったからといって、SNSアカウントを探すな」――これは、SNS時代を生きる私たちが、現代社会を快適に過ごすための大切な知恵のひとつだ。

ソーシャルメディアアプリのアイコンが並ぶスマホ画面
写真=iStock.com/hapabapa
※写真はイメージです

幼いころにかつて夢を与えてくれた表現者たちは、いまSNSなど使わないでも生活が成り立っているなら、むしろそのままでいてくれた方がよいだろう。SNSによって見せられる「編集を通さない」かれらのありのままの姿や、SNSによって変わっていく姿は、たいていの場合、喜ばしいものではないからだ。

若い表現者は「自主規制」を加速させるだろう

表現者がSNSと強く結びついてしか、自身の表現活動が成り立たせられなくなるという状況は、とりわけ若い表現者たちの「自主規制」を加速する流れにもつながっていくだろう。

「炎上」が起きてしまった際のリスクは、ダイレクトに自分自身へのダメージへと変換されてしまう。SNSの社会への影響力はますます高まっており、多くの人からの非難やバッシングを浴びてしまったときのインパクトは計り知れないものとなりつつある。

私はこのプレジデントオンラインで、現代社会の道徳観や政治的ただしさに著しく反するような記事を多数発表しているが、SNSではそのたびに激しい罵声を浴びせられている。個人的にはそのような罵声に心を痛めることはないが、しかしすべての人が私と同じように痛覚が鈍磨している異常者であるわけではない。むしろほとんどの人は、SNSで直接的に向けられる悪意をなるべく少なくするために、「だれも傷つけない表現」を目指そうとする。SNSによる誹謗中傷で自死する人が増えているような状況ではなおさらだ。