「オペラというと、私はやはりヴェルディだとかプッチーニということになりますが」「それはご自由にどうぞ」「……これで引っ込みがつかなくなった」(笑)

辻井は、多くの資料を読み込むと同時に、外交官・杉原千畝に改めて思いを馳せた。ともかく、現地を見ることだ。辻井はリトアニアに足を運んだ。

杉原千畝が遭遇した事件とは、どんなものだったのか。暦を70年前に戻そう。

「事件」が起きたのは、1940(昭和15)年7月、現場はバルト三国の一つ、リトアニアの首都カウナスである。当時の世界情勢は33年にヒトラー政権が成立し、ユダヤ人の排斥運動は熾烈さを極めていた。日本がドイツと防共協定を結んだのが36年の11月。そして39年9月1日にドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が始まっていた。

杉原がフィンランドから領事代理としてリトアニアに家族ともども赴任したのが39年8月。そして異変が起きたのは翌40年7月18日の早朝のこと。杉原は領事館の門前で大勢の人々の異様なざわめきを耳にする。ドイツ占領下にあったポーランドから逃げてきたユダヤ系難民たちであった。いずれも、南米やアメリカに向かうためにソ連経由での日本国の通過ビザを求めて領事館にやってきたのだ。ポーランドでナチスが大量虐殺を繰り返していることをその目で見、人間性を否定された末に命乞いにやってきた人々の群れであった。この地から脱出できなければ死が待っている。しかし、通過ビザの発行には、受け入れ先の確定など手続き上の文書が必要である。避難民たちはそれをもっていなかった。

杉原は急ぎ東京の本省に電報を打ち、通過ビザ発行の可否を仰ぐが、結果は否であった。死に直面した難民の群れが眼前にある。杉原は茫然とし苦悩する。(文中敬称略)

(構成=篠田 達 撮影=市来朋久)