大学受験で『試験にでる英単語』(森一郎著、青春出版社)のお世話になった人は多いだろう。私の受験期には必携書に近かったし、今も改訂が続いているようだ。この本の斬新さは単語の配列順にあった。それまでの単語集の多くがアルファベット順に並べていたのに対し、試験に出る確率の高い重要語から配列していったのだ。とかく勉強系の本は道半ばで挫折というリスクがついてまわる。途中までしか続かなかった場合、アルファベット順の単語集だと、たとえばaからfで始まる単語まではやたら詳しい、という変な状況になる。この点に着目したことが「でる単」(西日本では「しけ単」)のヒットの最大要因だったろう。

経済書にも似たようなことが言えるのではないか。一念発起して入門書から読み始めたが、ミクロ経済学の需要供給曲線が終わった後くらいから難しくなり、結局挫折。現実の経済現象を理論で読み解くところまで到達しない。耳の痛い人は少なくないだろう。それならばいっそ、経済を考えるうえでの、興味深い、美味しいところだけ読んだらどうか。こんな人にお勧めなのが、小島寛之著『容疑者ケインズ』である。

『雇用、利子および貨幣の一般理論』で広く知られる経済学者ジョン・メイナード・ケインズ。彼の打ち立てた理論はすでに終わったものなのか。それとも現在の経済状況を考えるうえで多くの示唆を含むものなのか。第1章ではケインズの「一般理論」そのものが批判的に検証されている。第2章はサブプライムローン問題などに代表される今日的な金融市場の問題の分析、第3章は著者の専門である「意思決定理論」の最新研究の紹介になっている。それぞれ節目ごとにケインズの影が見え隠れする構成は巧みだ。

経済オンチの私の興味を最も惹いたのは“人間の心理”行動の好みが経済に与える影響についての解説である。「人は確率のわからない環境を、わかっている環境より嫌う」「確率がわからないときは、最も都合が悪い場合を問題にする」「人はネガティブな情報のほうに強く反応する」。これらはすべて「たぶん、そうだよねー」という感覚的な話ではなく、実験に基づく数理的な分析で例証されているらしい。数理といえば、著者は数学エッセイストの顔も持っている。おそらく本人は「数式で説明すれば早いのに……」とも思っただろうが、本書ではできるだけ平明に文章で解説していて、その点、努力賞ものだ。

一方で、入門書にありがちなわかりやすくするための遠回りは一切ない。スラスラ読める感じではなく、ページごとにしっかり読み込んでいかないと難しく感じる向きもあるだろう。その分、読了後は最新学説の解釈も含め、経済理論の第一線に触れた充実感を十分に味わえると思う。「ナイトの不確実性」も「エルスバーグのパラドックス」も、他人に自慢げにウンチクをたれたくなること請け合いだ。

さて、内容をだいぶ褒めたが、この思わせぶりなタイトル、ケレン味たっぷりの装丁はいかがなものか。私の知人には中身をほとんど確かめずに新刊本をまとめ買いする人もいる。洒落た新感覚のパロディ推理小説と思って買った人も全国に何人かいることだろう。ミステリファンを欺いた者は誰か? ここは出版界の慣例から、著者よりも編集者に容疑をかけておこう。