「皆さんとともに日本国憲法を守り」

私は1945年(昭和20年)生まれだから、昭和天皇が現人神(あらひとがみ)であった時代は知らない。長じても天皇についての関心は全くといっていいほどなかった。

大学時代は70年安保の嵐が吹き荒れていた。学生運動はまったくやらなかったノンポリだったが、「天皇の戦争責任を問え」「天皇は差別の根源」などというアジ演説を後ろで聞いていた。

出版社に入ってから金達寿の『日本の中の朝鮮文化』(講談社)を読み、東洋史学者の江上波夫に会って「騎馬民族征服王朝説」を聞かされ、天皇も日本人のルーツも朝鮮にあるのかと、漠とだが、考えるようになった。

それでも天皇にさほど関心が増したわけではない。それが変わったのは、やはり昭和天皇が崩御して明仁天皇が即位した時からだった思う。即位後の朝見の儀で、以下のような勅語を発したのだ。

「皆さんとともに日本国憲法を守り、これに従って責務を果たすことを誓い、国運の一層の進展と世界の平和、人類福祉の増進を切に希望してやみません」(『明仁天皇の言葉』近重幸哉著・祥伝社より)

憲法第99条に、天皇や国会議員、裁判官などは憲法尊重擁護義務があるから、至極まっとうな言葉なのだが、すごく新鮮な気がしたものだった。

「タブー」となっているルーツにも言及

その後も誕生日会見で、「私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています」と、ウルトラ保守の中で“タブー”となっているルーツについても触れた。

「さきの戦争」の悲惨さを忘れず、憲法を遵守し平和を守り抜く。そうした強い思いが天皇皇后にはある。だが、翻って、われわれ日本人はそのことをどれだけ真剣に考えてきたのか、忸怩たるものがある。

沖縄を始め、フィリピン、パラオなど、さきの戦争の激戦地を回る慰霊の旅を続けてきた。

内田樹は、2016年8月8日の「おことば」の中に「象徴」という言葉が8回使われたことに注目する。とくに印象的だったのは「象徴的」という言葉だった。象徴とはそこにあるだけで機能するもので、それを裏付ける実践は要求されないから、これは論理的に矛盾していると内田はいう。

「しかし、陛下は形容詞矛盾をあえて犯すことで、象徴天皇にはそのために果たすべき『象徴的行為』があるという新しい天皇制解釈に踏み込んだ。そこで言われた象徴的行為とは実質的には『鎮魂』と『慰藉』のことです」(『街場の天皇論』東洋経済新報社)

鎮魂とは、さきの戦争で斃(たお)れた人々の霊を鎮めるための祈り。慰藉とはさまざまな災害の被災者を訪れ、彼らと同じように床に膝をつき、傷ついた生者たちに慰めの言葉をかけること。

天皇の「おことば」は、象徴という言葉が何を意味するか考え抜き、儀式の新たな解釈を提示した画期的なものだと内田はいう。