不満一つ出なかった明治の行政改革

「変える!」ための三カ条

1868(明治元)年の鳥羽・伏見の戦いでは、幕府軍がすぐ近隣の伏見まで攻め上ってきているときに、新政府側はまだ方針が定まっていなかった。その緊急時に、政府参与だった大久保は、政府議定の岩倉具視宛てにきちんとした筆書きで「こういう対策を立てないと、大変危険である」という長文の手紙を書いた。当時、大久保と岩倉の自宅は互いに徒歩5分程度の距離だが、手紙のほうが冷静に伝えられるし、岩倉も何度も読み返せるというわけで、どこまでも沈着冷静なのだ。その後、緊急会議で大久保が徳川征討を主張し岩倉が賛同。新政府軍が旧幕府軍を破ったが、私が同じ立場なら、手が震えて手紙どころではないだろう。

現在の鳩山政権では公務員制度改革が大きな焦点となっているが、日本の官僚機構の基礎は73(明治6)年に内務省を設置し、初代内務卿に就任した大久保が築いた。上が言うことをひたすら守る藩や江戸幕府などの官僚に対し、自ら政策を立案し実行するのが近代の官僚。そういう新しい時代の倫理観を強く意識していたのが大久保だった。

官僚の養成機関がまだなかったから、身分・出身・経歴を問わず、いろんな人脈を通じて有能な人材を一本釣りした。明治政府といえば藩閥政治で知られるが、当時はまだ藩閥官僚は存在せず、情実人事の一切ない実力主義。無能な者はもちろん、2日酔いで出勤するような輩や、有能でも収賄した者はすぐに淘汰された。

当時の官僚は、自分たちが国家をつくっていくのだという非常に強い意識があった。76(明治9)年暮れの伊勢暴動で地租(税金)を軽減したことで、翌77年早々に大々的な行政改革を行ったが、その中心はほかならぬ内務省。幾つかの機構を統合し、職員のクビを切り、県知事や上級官吏(地方官)の減給を行った。しかし驚いたことに、不満が一つも表に出てこなかった。現在の官僚にも見習ってほしいところだ。もっとも、組織は50年、70年経てば老朽化する。明治も後期に入ると官僚組織が「守り」に入り、それまでは密に連携していた省庁間の縄張り争いも見え始めるのだが……。

大久保は78(明治11)年に暗殺されたが、この重鎮を失った後も、明治国家はガタつかず殖産興業政策を掲げ成長していった。この短期間によくそれだけの組織をつくり上げたものだ。現政権にも大久保同様の決断力、実行力と言動明瞭なリーダーシップを期待したい。

(西川修一=構成 浮田輝雄=撮影)