津波に呑まれた故郷に新しい雇用をつくりたい

【田原】さて、2011年です。東日本大震災で故郷が被害に遭います。3月11日、岩佐さんは何をしていらしたのですか。

【岩佐】東京で仕事をしていました。慌てて実家に電話しましたが、まったくつながらなくて様子が分からない。そこで安否確認するための掲示板サイトを、その日のうちに立ち上げました。山元町は当時人口1万6000人の小さな町でした。でも、みんな連絡がつかないのか、サイトには1日で40万のアクセスがありました。うちの会社にも、山元町はどうなっているのかという問い合わせが殺到。もう自分の目で確かめるしかないなと思って、翌日に車で現地入りしました。

【田原】車で入れたの?

【岩佐】はい。援助物資を積んで、警察から通行許可書をもらって。

【田原】行ってみたら、どんな様子でした?

【岩佐】……。なんというか、ほんとにすべて破壊されてました。私の実家は津波がギリギリ届かずに両親も無事でしたが、まわりには流された方も多かった。あとで分かったのですが、山元町では人口の約4%に当たる600人強の方が震災で亡くなっています。

【2011年】故郷の復興を目指しブランドイチゴを開発 東日本大震災で故郷山元町が甚大な被害に。復興を目指し、農業生産法人GRAを設立。ひと粒1000円で売れる「ミガキイチゴ」を生み出す。

【田原】4%ですか。その惨状を見て、岩佐さんはどうしたのですか。

【岩佐】じっとしていられないので、とにかくボランティア活動をやろうと決めました。目に入ったのがイチゴの農地です。山元町と隣の亘理町は日本の最北端のイチゴ産地で、北海道や東北の人が食べるイチゴの多くはここで栽培されています。しかし、町内にあった129軒のイチゴ農家のうち125軒が流されてしまった。残った数軒の農家さんを支援することから復興ののろしをあげようと考え、まず農地の泥かきから始めました。

【田原】ボランティア活動は1人じゃ限界があるでしょう。

【岩佐】大学院の仲間に手伝ってもらいました。MBAを取りにきているのは、社会でリーダーになろうという志のある人たちです。被災地を直接見るべきだと言ったら学生や先生が賛同してくれて、数十名のボランティア部隊ができました。

【田原】被災者の方の反応はどうでしたか。

【岩佐】毎月、スコップを担いで泥かきに行きました。でも、ある住民の方から「泥かきは我々でもできる。君たちはビジネスパーソンだから、雇用をつくってくれ」といわれてハッとしました。たしかにそうなのです。山元町は、仙台まで電車で40分のベッドタウンでした。しかし線路が流されたためにベッドタウンとしての機能を失い、避難した人もなかなか戻ってこなかった。復興には働く場所が必要で、私たちが力を発揮できるとしたら、そこだろうと。

【田原】それで農業生産法人GRAを立ち上げたのですね。でも、どうしてイチゴなのですか。雇用をつくるなら別の産業でも良かったんじゃないですか。

【岩佐】山元町のみなさんに「誇りは何か」と聞くと、7割の人が「イチゴ」と答えます。震災前、山元町のイチゴの出荷額は約15億円でした。町の予算規模が40億円でしたから、イチゴは山元町において象徴的かつ経済的に大きな存在だったのです。ただ、山元町のイチゴ産業は後継者不足で、斜陽化していたことも事実です。イチゴ産業を元に戻すだけでは新しい雇用を生みません。ですから、どうせやるならこれまでと違って世界で通用する産業にしようという思いで事業をスタートさせました。