なぜ卒業生は余裕たっぷりなのか

日本とアメリカでは教え方も異なります。アメリカのエリート校で行われている講義は、マイケル・サンデル教授の白熱教室を思い浮かべればわかりやすいでしょう。教授が学生に対して質問を投げかけて、学生が自分の考えを述べ、さらに議論を重ねていきます。議論の先に、必ず正解があるわけではありません。しかし、だからこそ議論が盛り上がります。

たとえば誰かが言った意見に、ほかの誰かが反対意見を唱えたとします。そのとき真ん中を取って結論を出すのは妥協の産物であり、新しい発見はありません。そうではなく、弁証法、つまり正反合で、新しい次元の解を探っていく。それが議論の面白さであり、学生はそのプロセスを楽しみながら自分の知見を磨いていきます。

それに対して、日本の大学や大学院では、いまだに教授が一方的に話して、学生はひたすらノートを取るというスタイルが一般的です。こうしたやり方で、学生が知的興奮を感じるのは難しい。象徴的なのは、休講になったときの反応です。日本の大学で急に休講になると学生は大喜びしますが、それは講義が退屈で、一種の苦行になっているから。ハーバードでも休講は発生しますが、向こうの学生は喜ぶどころか不満をぶつけてきます。講義に対する学生の姿勢が、まるで違うのです。

HBSでの成績は発言の質と量で半分決まる。(時事通信フォト=写真)

もっとも、ハーバードの学生が休講に文句を言う理由はほかにもあります。ハーバードの授業は議論が中心なので、議論の前提となる知識は各自が予習して身につける必要があります。この予習が大変で、多くの学生は図書館に缶詰めになって本やケースを読んでいます。なかには校内のシャド(ジム)で汗を流しながらケースを読んでいる学生もいます。せっかくそこまで苦労して予習したのに、休講とは何事かと文句を言うわけです。

学生たちが文句を言いたくなるほど、たしかにハーバードの予習量は膨大です。教授が学生の限界を試すようなところがあって、学部なら「次回まで課題本を2冊読め」、ビジネススクールなら「25ページのケースと、関連する論文を読んでこい」と平気で求めてきます。まともにやっていたら、とても読み切れない量です。

ただ、その結果として、学生たちの実務能力も高まります。限られた時間の中で大量の課題に対応するうちに、どこにポイントを絞って読むか、あるいはどこは斜め読みしていいかという判断力がつきます。

磨かれるのは判断力だけではありません。ハーバードの卒業生は、困難に直面しても、どこか余裕たっぷりに見えます。それはおそらく、学生のときに大量の予習と向き合ってきた経験があるからです。予習しなければ議論に参加できないというプレッシャーを何度となく乗り越えてきた経験が、人生にゆとりを持たせるのです。