窪田良の半生を描いた「極めるひとほどあきっぽい」のストーリーに登場する川端英子先生は、窪田の人生に影響を与えた恩師の1人。大阪の小学校で教員をしていた川端先生は後にアメリカの日本語補習校で教えることになる。そこで窪田少年に出会った。
対談の前編(第14回 http://president.jp/articles/-/13974 を参照)では、小学6年生の頃の窪田と川端先生のエピソードや思い出を語り合った。後編では子どもにわかるように教えるためのコツや当時のアメリカにいた日本人の教育事情を語る。

何事も基礎なしでは上達しない

川端英子(かわばた・ひでこ)●元小学校教諭。1947年、大阪府生まれ。大阪基督教短期大学卒業後、大阪府松原市の小学校で教諭となる。5年後に退職し、コロンビア大学ALPに入学のため渡米。在米中、ニューヨークの日本語補習校にて教諭として勤務する。82年に帰国後は埼玉県の自宅にて勉強室を主宰し、小学生~高校生を指導する。5年前に勉強室は終了としたが、現在でも氏を慕う生徒たちが度々訪れているという。

【窪田】川端先生はずっと教師をしておられて、子どもの思考回路というのでしょうか、その辺りを熟知されていらっしゃいます。どうしてそんなに教えるのが上手なんですか。

【川端】頭のいい人は教えるのが苦手ではと思うんです。私はわからないことのほうが多いので、子どもの気持ちがわかるんです。「ここがわからないんじゃないの?」って聞いてあげる。そして、ノートに書くことと、ノートの整理をうるさく言いました。文章を書こうとしたりノートを工夫したりするにも思考が必要です。きれいな文章や工夫されたノートは読みやすいしわかりやすい。英語は文法をきちんと学ばないと、と思います。

だから日本では英語の文法は口うるさく教えました。数学もそう。例えば算数から数学への移り変わり、数学の段階では各単元の関連性を理解する「つながり」っていう勉強の仕方を大切にしました。大学に入った生徒たちも、私から英語の基礎を習ったおかげで高校に入ってから楽でしたって言ってくれます。

【窪田】アメリカで教えはじめて3年目に、私は出会いましたが、その前の2年はどんな感じだったんですか。

【川端】教育熱心な家庭が多くて、授業参観があるとご夫婦で参加される方も多かったですね。先生の中には留学中のアルバイトとして教えている人もいたんですけど、教師としての経験がないために親御さんからのプレッシャーに負けて辞めて行ってしまう人も多かったです。

【窪田】たしかに アルバイトで講師をやっていた留学生は多かったと聞きます。専門的に教えることをトレーニングされていないと結構しんどいんでしょうね。日本に戻るまでの一つの通過点としてアメリカの学校に通う生徒を担当する場合は、特にご両親からの要求値は高くなりますから。

【川端】そうなんです。窪田君たちを受け持った後にリバーデールに移ってからは、アメリカに定住するご家庭が多かったんですけどニュージャージーは通過点というご家族が多かったですね。日本の教育に遅れないようにしようという親御さんが多かったです。日本語を維持する程度に学ぶのと日本に戻る意識で学ぶのとでは違いますからね。

【窪田】アメリカの補習校ではいつもそれが問題になるんですよね。日本語を維持できればいいというケースと、日本で受験できるレベルにするためにすべての科目をきちんとやるケースは違います。維持したいだけの人からすると、そこまで宿題出されてもって思うでしょうし。日本に遅れないことを期待する親御さんからするとみっちりと子どもにたたき込んで欲しいと考えるでしょうから。

【川端】宿題が多すぎるって文句が出るから、宿題を出すのをやめた先生もいました。でも私はおかまいなしにどんどん出してました。私には私のやり方がありましたから。とはいえ、それに対して直接クレームをいただいたことは一度もなかったです。