窪田良の半生を描いた「極めるひとほどあきっぽい」のストーリーに登場する川端英子先生は、窪田の人生に影響を与えた恩師の1人。大阪の小学校で教員をしていた川端先生は後にアメリカの日本語補習校で教えることになる。そこで窪田少年に出会った。
対談の前編(第14回 http://president.jp/articles/-/13974 を参照)では、小学6年生の頃の窪田と川端先生のエピソードや思い出を語り合った。後編では子どもにわかるように教えるためのコツや当時のアメリカにいた日本人の教育事情を語る。

何事も基礎なしでは上達しない

【窪田】川端先生はずっと教師をしておられて、子どもの思考回路というのでしょうか、その辺りを熟知されていらっしゃいます。どうしてそんなに教えるのが上手なんですか。

【川端】頭のいい人は教えるのが苦手ではと思うんです。私はわからないことのほうが多いので、子どもの気持ちがわかるんです。「ここがわからないんじゃないの?」って聞いてあげる。そして、ノートに書くことと、ノートの整理をうるさく言いました。文章を書こうとしたりノートを工夫したりするにも思考が必要です。きれいな文章や工夫されたノートは読みやすいしわかりやすい。英語は文法をきちんと学ばないと、と思います。

だから日本では英語の文法は口うるさく教えました。数学もそう。例えば算数から数学への移り変わり、数学の段階では各単元の関連性を理解する「つながり」っていう勉強の仕方を大切にしました。大学に入った生徒たちも、私から英語の基礎を習ったおかげで高校に入ってから楽でしたって言ってくれます。

【窪田】アメリカで教えはじめて3年目に、私は出会いましたが、その前の2年はどんな感じだったんですか。

【川端】教育熱心な家庭が多くて、授業参観があるとご夫婦で参加される方も多かったですね。先生の中には留学中のアルバイトとして教えている人もいたんですけど、教師としての経験がないために親御さんからのプレッシャーに負けて辞めて行ってしまう人も多かったです。

【窪田】たしかに アルバイトで講師をやっていた留学生は多かったと聞きます。専門的に教えることをトレーニングされていないと結構しんどいんでしょうね。日本に戻るまでの一つの通過点としてアメリカの学校に通う生徒を担当する場合は、特にご両親からの要求値は高くなりますから。

【川端】そうなんです。窪田君たちを受け持った後にリバーデールに移ってからは、アメリカに定住するご家庭が多かったんですけどニュージャージーは通過点というご家族が多かったですね。日本の教育に遅れないようにしようという親御さんが多かったです。日本語を維持する程度に学ぶのと日本に戻る意識で学ぶのとでは違いますからね。

【窪田】アメリカの補習校ではいつもそれが問題になるんですよね。日本語を維持できればいいというケースと、日本で受験できるレベルにするためにすべての科目をきちんとやるケースは違います。維持したいだけの人からすると、そこまで宿題出されてもって思うでしょうし。日本に遅れないことを期待する親御さんからするとみっちりと子どもにたたき込んで欲しいと考えるでしょうから。

【川端】宿題が多すぎるって文句が出るから、宿題を出すのをやめた先生もいました。でも私はおかまいなしにどんどん出してました。私には私のやり方がありましたから。とはいえ、それに対して直接クレームをいただいたことは一度もなかったです。

子どもが涙を流しても頑張らせる

【窪田】補習校は国語と算数だけでしたよね。

【川端】はい。その2科目を週に1回の授業にどうやって集約してやらせるかというのが大変でしたね。だからどうしても宿題が多くなってしまって。漢字の練習や作文は時間がかかりますけど日本語教育には欠かせませんから。家で書かせた作文を1週間私が添削して次の授業で書き直しの宿題にすることが多かったですね。子どもには一番つらい宿題なんですよ。算数よりも国語の宿題が大変だったのよね。

【窪田】算数よりも国語は時間かかりますからね。

【川端】親御さんたちも大変だったと思います。だから卒業文集を読んでると子どもたちがものすごく苦労していたのが伝わってきます。平日はアメリカの学校のことをやらないといけない。アメリカの学校はレポートが多いですから、そこに日本語補習校の宿題も重なって。たとえ算数といえども用紙一面に分数の問題をたくさん出されると悲しくて涙もでますよね。「なんでこんなにやらないといけないの?」って思う子もいたみたい。そのせいで私のことを「こわばた」って呼ぶ子がいたの。ニューヨークの自宅に勉強にきていた子がぽろっと「こわばた先生」って言ったんです。「あれ? 今何て言ったの?」って。そこではじめて知ったんです。

【窪田】ほんと毎日っていうくらい教えておられましたよね。

【川端】土曜日は補習校で教えていて、平日は補習校以外の子どもたちにプライベートで教えていたんです。補習校で教えていることが親御さんのつてで伝わったらしく、補習校で教えていない子どもに限って受け入れてました。娘が生まれてからは私が教えてる間に生徒のお母様がベビーシッターをしてくださって助かりました。

そういえば、窪田君、5年生を飛び級したのよね?

「パールハーバー」を避けるために飛び級

【窪田】私が通っていたマドンナスクールでは5年生の歴史でパールハーバーの授業があったんですよ。上の学年の女の子がパールハーバーの授業をうけて辛い思いをした話を聞きました。この授業だけは絶対に受けたくないと思って、猛勉強して5年生をスキップしたんですよね。

英語も頑張りましたね。英語すらろくに話せなかった日本人が、学校始まって以来の飛び級をしたので学校中から驚かれたのなんの。これだけの成績をとったんだから飛び級させてくれって校長先生に頼みましたから、交渉力もあったのかもしれません。でも、まさか猛勉強したのがこの理由だったということは、両親は知らないと思います。話してませんから。

シアトルにある同業のバイオ企業のベテランCEOとの会話の中で、彼が子供の頃にクラスにいた日本から来た少年を、パールハーバーの歴史の授業中にかばったという話を聞いた時は、目頭が熱くなるというか胸がつまりましたよ。

【川端】パールハーバーの話は本当にそうね。私の生徒の中にも授業中に泣いたって言う子が何人かいました。昔、主人とハワイに行った時にアリゾナメモリアルに行ったんですよ。私たち以外に日本人がいなくて肩身が狭い思いをしました。

【窪田】現在は変わったようですが、アメリカではこういう教育がされていたって日本では知られてないですよね。みんなびっくりすると思います。ほんと飛び級するに値するモチベーションになったんですよ、あれは。

【川端】ちょっと話が飛びますけど、私の叔父は海軍兵学校を出たパイロットだったんです。宮野善治郎といいますが、ガダルカナル島の近くで昭和18年に戦死したと聞いています。叔父のことは本にもなってるんです。山本五十六大将の護衛機を出した零戦隊の隊長でした。アメリカには既にマークされていたので狙い撃ちされたらしいんです。「零戦燃ゆ(1984年)」という映画では俳優の目黒祐樹さんが叔父の役をやっていました。そういう背景があるので、ハワイでは愕然としましたね。

【窪田】そうだったんですか。そんな方がご親戚ならなおさらですよね。歴史は常に誰かの主観で語り継がれるから難しい。勝利が正義とも限らない。容易なことではありませんが、子どもの世代、孫の世代、その先の世代がこんな辛い思いをしなくていいような世界を作りたいですよね。

自由に育つも、躾は厳しく

【川端】ほんとにそうですね。ところで窪田君は飛び級した理由をご両親には話していなかったのね。窪田君のお母さんは控えめというか思慮深い方でしたよね。ニュージャージーでは親しくお話しする機会もなかったのですが、日本に帰ってからは2回ほどプライベートでお会いし、お食事もご一緒しました。

【窪田】母は私がお世話になった先生や友達のことが気になるタイプなんですよね。 今の自分があるのは川端先生のおかげだということを、私がいつも家で話していたので。だから母も先生に会いにいったんだと思います。たくさん出会った先生の中で一番印象に残っていたのが川端先生だということを、母も知ってましたから。

【川端】お父様は窪田君の生き方に何か影響を与えることはありました?

【窪田】勉強をしたくなければしなければいい、好きなように生きろって言える父親でしたよね。母にも勉強を嫌う私に、あまり口うるさく言うなって言ってたくらいです。そのせいもあったのか、母も言わなくなりましたね。自由奔放でも立ち振る舞いや言葉遣いといった躾には厳しかった。大人びたこどもだったかもしれません。

【川端】6年生の卒業の時に、「おかげさまで算数がほんとうに出来るようになりました」って言ってくださったの。窪田君は本当に勉強がきらいだったのに好きになったって、控えめにサラリと言っていただけたことが思い出されます。

そう言えば窪田君、運動会出てなかったんじゃない?

【窪田】休んだかもしれないですね。運動は好きだったんですけど、学校の行事に出ないタイプだったんです。

【川端】でもさすがに卒業式はちゃんと出てましたよね。

破れたズボンで卒業式に

【窪田】出ました。でも卒業式に破れたズボンをはいて行ったんです。こういう時はきれいな格好をするものだってわかってたんですけど、逆に普段と変わらない格好でいるほうが格好いいと思ってたんですよね。斜に構えていたところがあるというか。持っていたズボンが破れていたという事実もあるんですけど、あえてそれをはいて行かなくてもいいんじゃないって言われたのに、はいて行ったんですよね。周りのお母さんたちには「卒業式なのに……」っていう目で見らましたけど。

補習校はそれ以外に大きな行事はありませんでしたよね。

【川端】文化祭とかはありませんでしたね。ただ、クリスマスはクラスでピザを食べたりしましたね。日本の風習を忘れさせないようなアクティビティも出来れば良かったんだけど、勉強で手がいっぱいだったんですよ。私は休み時間を与えませんでした。トイレは行きたくなった人だけが教室から出ていい、という具合で。

それもあって補習校に通う子どもたちには不満が多かったですね。また何故、アメリカの学校と日本語補習校の両方に通わないといけないのかを納得させて勉強させないといけなかったんです。算数の時間でそういう話はできないんですけど、国語の時間には「あなたがたはとても幸せなチャンスを与えられたんだよ、2つの国の言葉で学んだことはいずれ役に立つんだよ」って、よく話したものでした。

子どもたちにとって国語教育は大切です。話せても正しく書くことは難しいじゃないですか。だから宿題で毎日短文を書かせてました。その日に学んだ話題や漢字を使って5W1Hを考えさせ、読み手に伝わる文章を書く練習をさせたんです。

辛くて泣く子もいましたけど窪田君はめげることも泣くこともなかったわね。いつも前向き・活発で本当に接しやすかったです。

【窪田】宿題をしなかったからかもしれません(笑)。先生に怒られても辛いと思ったことは一度もなかったんです。気にかけてくれることが嬉しかったくらいですから。それくらい生徒のことを考えてくださってたんですよね。

【川端】日本の教科書の内容はアメリカで生活をする子どもたちにとって環境的になじめないんですよ。それをいかに浸透させるかが大変でした。それこそお正月がきたら百人一首の話をしたり。ただただ日本に帰った時に困らないようにしなきゃいけないって考えてましたよね。

だからしゃべるときも「お昼寝」ではなく「午睡」というように漢字を多く使わせてました。文語調ですね。漢字でしゃべる。短文を書くのもいいんですけど、習った熟語を使わせないといけませんから。そうしないと身につきませんしね。だからどうしても作文の宿題が多くなってしまうんです。みんないやがってましたけど、漢字を習っても使い方がわからないままだとどうしようもないですから。

【窪田】小学校6年生の時に先生に出会えたことは人生の宝だと思います。アメリカで受けた教育は自分にあっていたかもしれませんが、先生に教えてもらったから今があるって思うんです。一人でも多くの子どもたちが自分で芽をのばしていけるように、まだまだ川端先生には教える仕事を頑張って続けて欲しいです。

窪田 良(くぼた・りょう)●1966年生まれ。アキュセラ創業者・会長兼CEOで、医師・医学博士。慶應義塾大学医学部卒業後、同大学院に進学。緑内障の原因遺伝子「ミオシリン」を発見する。その後、臨床医として虎の門病院や慶應病院に勤務ののち、2000年より米国ワシントン大学眼科シニアフェローおよび助教授として勤務。02年にシアトルの自宅地下室にてアキュセラを創業。現在は、慶應義塾大学医学部客員教授や全米アジア研究所 (The National Bureau of Asian Research) の理事、G1ベンチャーのアドバイザリー・ボードなども兼務する。著書として『極めるひとほどあきっぽい』がある。Twitterのアカウントは @ryokubota 。 >>アキュセラ・インク http://acucela.jp