仕事のために人生があるのか?

若新雄純(わかしん・ゆうじゅん)
人材・組織コンサルタント/慶應義塾大学特任助教
福井県若狭町生まれ。慶應義塾大学大学院修士課程(政策・メディア)修了。専門は産業・組織心理学とコミュニケーション論。全員がニートで取締役の「NEET株式会社」や女子高生が自治体改革を担う「鯖江市役所JK課」、週休4日で月収15万円の「ゆるい就職」など、新しい働き方や組織づくりを模索・提案する実験的プロジェクトを多数企画・実施し、さまざまな企業の人材・組織開発コンサルティングなども行う。
若新ワールド
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ではなぜ、彼らはリスクをとってでも「週休4日」という選択を希望するのでしょうか?これについては、社会人経験者や、現在も正社員として働いているという参加者たちからいろいろと意見が出ました。中でも多くの共感をよんでいたのは、「週5日で朝から晩まで働くと、一週間仕事しかできない。正社員なんだから、すべてを出しきれ! となる。残業代もついて給料はたくさんもらえるが、生きるために働くというよりも、働くために生きている。そこに疑問を感じていた」という声です。2日の休みは、肉体的・精神的な健康を保つ最低限の休息でしかなく、すべてが仕事中心に設計されている。その意見を聞いて感じたのは、週5日働くとは、「週のうち5日働く」、ということではなく、「人生フルコミット」の意味合いが強いのだろうということです。

こんな意見もありました。「毎日の仕事自体が、消化試合になっていく。成果を出して給料をもらっても、なんのための仕事なのか見えなくなっている」と。「消化試合」とは、すでに結果が決まっているのにただ数をこなすためだけに試合をするわけで、モチベーションを保てるはずありません。

しかし、仕事で成果を出して給料をもらうことそのものに、大きな意味や価値を感じられた時代もあったわけです。それを象徴する言葉が、1900年ごろに誕生したらしい「月給取り」。いまで言う「サラリーマン」ですが、当時はこの「月給取り」というのが一番のモテワードだったらしいです。今で言う合コンのようなものがあったとしたら、「僕は月給取りなんです」と言えば、みんな「この人と結婚したい!」と思ったのだとか。それほど「月給取り」であることが重大なステータスだったようです。

明治までの日本は農業が中心で、半年かけて育てた野菜が、気象条件等ですべてダメになってしまうこともよくありました。しかし「月給取り」なら、異常気象だろうが嵐だろうが、決められた時間に決められた方法で働けば、確実に給料がもらえる。これはとんでもなくすごいことだったのです。

給料がもらえれば、冷蔵庫や洗濯機、車など、生活を激的に向上させるものを次々買うことができる。その「消費」による高揚感はハンパじゃない。働けば働くほど得られるものがたくさんあって、日々の暮らしが良くなっていく。それを少しでも早く手に入れられるのなら、一日たりともムダにせず働きたい。週5日以上、人生のすべてをフルコミットしてでも、月給取りとして仕事に没入できるだけの魅力があったのでしょう。

しかし今は、そんな時代ではありません。僕たちはもう少し、人生と仕事の間に距離感を持てるようになるべきだと思います。脇目もふらずがむしゃらに働けば、保証的に人生が豊かになるわけではありません。仕事ありきで人生を設計しようとすることのほうが、あまりに旧社会的で、場合によっては「甘え」や「逃げ」のようにも感じます。

仕事はとても重要ですが、もっと余裕をもって自分の人生に「統合」していくべきものなのではないのでしょうか? 僕は、そこには議論されているリスク以上に、新しいスタイルを構築しなおし人生のオーナーシップを取り戻すという高次元の楽しさや報酬があるように思えてなりません。もちろん、時代に先立って「最初にやる」というのは簡単なことではありません。だから、覚悟して「人生の実験」に参加してくれているみんなに、心から敬意を表します。