織田信長(おだ・のぶなが)
1534~82年。尾張の国生まれ。60年、有力大名の今川義元を桶狭間の戦いで破ってその名を天下に轟かせた。「天下布武」を旗印に武田氏、上杉氏、本願寺などの強力な勢力と対峙するも、京都の本能寺で部下の明智光秀の謀反にあって自害したとされる。
心を奮い立たせる三カ条
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心を奮い立たせる三カ条

人事政策の面でも信長は、イノベーションを進めました。羽柴秀吉や明智光秀といった途中入社組でも、力のある武将と認めれば引き上げ、逆に譜代の臣であっても十分なパフォーマンスを発揮できない佐久間信盛などは追放しました。

年功制ではない、いまで言う実力本位の人事制度を取り入れました。功ある者には禄を与え、徳ある者には地位を与えていったのです。身分や出自に関係なしにです。しかし、信長には焦りもあったのでしょう。構造改革が早すぎて最後は光秀の謀反により、本能寺で討たれてしまう。秀吉のような籠絡、人たらしの才は信長にはありませんでした。

天の時、地の利は、信長に味方しましたが、人の和においては躓いてしまったのです。

わが国の企業の多くは、1990年代から、米国型の成果主義を導入してきてます。しかし、米国の金融会社に代表される極端な富の配分、つまり10%ほどのエグゼクティブだけが高給を受けるシステムに、私は賛成できません。90年代、英国に駐在しましたが、金融、IT業界への極端な優遇政策で、製造業はガタガタになった。サッチャー改革は本当に正しかったか、検証が必要でしょう。これからは、製造や営業の現場で一生懸命な人を評価するといった、バランスのよい評価制度が、企業には求められるでしょう。

これは個人的な話ですが、秀吉の小田原攻めで、関東で一つだけ落ちなかった城があります。小説『のぼうの城』(和田竜著)に登場する埼玉県行田市の武州忍城です。秀吉側の総大将は石田三成。三成は大軍を率いて、総攻撃を仕掛け、秀吉による高松城攻めを凌駕する“水攻め”を行う。利根川と旧荒川とを堤防で結ぶ大規模工事は、当時の土木技術の最先端を駆使したものだったでしょう。

ところが、小さな忍城は最後まで落ちなかった。城を守ったのは、成田長親。結局、北条の小田原城が先に落ちてしまい、忍城は開城される。なぜ、忍城は落ちなかったか。長親は領民に慕われていたからです。領民は農民兵になって、城の守備に参加して長親を支えてくれた。

実を言うと私は、長親ら成田氏の末裔なのです。忍城開城で、祖先は利根川を渡り、群馬県邑楽郡千代田町に移り住み、名字を松沢に変え、田畑を開墾したのです。長親のように多くの人々に慕われ、愛され続けるキリンビールにしたい。そう思い、構造改革を進めています。