「おまえたち、この本を読んでみろ」。たしか、私が北海道大学2年生のとき、つまり1969年に、教授から講義中にこう勧められたのが『沈黙の春』でした。

キリンビール元社長 
松沢幸一

1948年、群馬県生まれ。県立館林高校卒。北海道大学農学部卒業後、73年同大大学院修士課程修了。同年キリンビール入社。主に生産技術部門を歩み、ドイツへの留学も経験した。生産統轄部長などを経て、09年~12年3月社長。

アメリカのアポロ11号が月面着陸を果たすなど、当時は“科学万能”と考えられていた時代でした。西側先進国の生活はどんどん豊かになり、なかでも日本は工業技術をベースに突出した経済成長を遂げていました。『沈黙の春』は、科学万能という人類の考え方に警告を発した、という点で大きな意義をもつ書であると思います。

著者のレイチェル・カーソンは、海洋生物学者。62年にアメリカで初版が刊行されました。DDTをはじめとする農薬や化学物質を使用する危険性に、実地のデータを基に警笛を鳴らしたのです。事例は米国内だけではなく、日本の板橋など世界で発生したことが、盛り込まれていて幅広い。

「20世紀というわずかな間に、自然が破壊されていく」「化学薬品は、放射能に勝るとも劣らぬ禍いをもたらし」と、この本は訴えています。

群馬県南東部の千代田町で生まれ育った私は、子供の頃から豊かな自然に囲まれていました。ところが、私が高校生になる頃には、農薬の大量散布が原因なのか、田んぼにいたカエルやヘビは激減していた。それだけに、動植物が化学物質により失われてしまうと指摘したこの本は衝撃でした。

単に、経済成長だけを目指すことの危険性、環境問題の重要性、そしてCSR(企業の社会的責任)などを、私が最初に意識したきっかけがこの本だったといえましょう。

例えば、洋の東西を問わず、古代から現代まで、人間は自分たちのために木を切ってきました。ところが、伐採の結果として地球の砂漠化と温暖化が進んでしまう。人間が自分たちの都合を優先すると、自然環境は簡単に破壊されていくのです。経済合理性、そして科学万能を前面に押し出すと、化学物質にしても誤った使い方をされてしまう。人は昔から、“愚かなこと”を繰り返してきたわけですが、人と自然との共生がいまほど求められる時代はありません。