日本屈指の住宅金融のプロである大垣尚司さんが、「生きづらい時代の日本」において、自分の身を自分で守るための新しいキャリアの考え方についてまとめた『生きづらい時代のキャリアデザインの教科書』(日経BP 日本経済新聞出版)。そもそもなぜ日本は「生きづらい国」になってしまったのか。そして、そんな日本で生き抜くために、いま最も投資すべきものとは。大垣さんにその答えを聞いた。
「成長しないのに成長を求めることが日本をおかしくしている」
「40年間社会人をやってきて、一応今も現役のジジイなりの考えを少しだけ書かせてもらった」
書籍『生きづらい時代のキャリアデザインの教科書』の著者、大垣尚司さんは東京大学法学部を卒業後、日本興業銀行に入行。その後、アクサ生命保険で専務を務め、日本初のモーゲージバンクとなる日本住宅ローン株式会社を設立し、現在は青山学院大学で教授を務めている。本の冒頭部分に書かれた「40年間社会人をやってきたジジイ」とは、そんなピカピカの経歴を誇る人物である。
この本は、現代の社会・経済・企業の仕組みからキャリア、金融、社会保障、果ては幸福論まで、大垣さんがびっしりと解説した一冊だ。一見難解な本にも思えるが、その文章はまるで学生に講義するような優しい語り口で、難しい金融用語も分かりやすく説明されている。「社会人として必要な知識がすべて詰まった、人生の指針となるような本」だ。
大垣さんがこの本を書こうと思い立ったのは、本人いわく「日本の経済が成長しない中で成長を演出することの歪みが行き着くところまできてしまったように思えるから」だ。
「いわゆる不動産バブルもリーマンショックも、経済の成熟化によって、膨大な量に達した投資マネーが投資機会を圧倒的に上回る状況が常態化するなかで、実体が伴わないものに投資が集中して自分で価格を押し上げたあとに化けの皮がはがれて起きた現象です。
実は今も基本的な状況は変わっておらず、日本という国全体は危うい『成長』の演出に腐心している。ただ、この構造は簡単には変わらないだろうから、若い人たちには自分の身を自分で守る知識や術を身に付けてほしいと思ったんです」
虚構の数字でつぎはぎしているのは一般企業も同様
なぜバブルという虚構が生まれるのか。それは「成長することが経済や企業の本質なのに、もう成長できるフロンティアが日本にはないから」だと大垣さんは指摘する。そうした中で、「成長」を「地価や株価の上昇」に置き換えて金融の論理でそれを実現しようとするから歪んだ方向へ進んでしまうのだという。
「私は起業も経営も経験したのでそれなりに実感があるのですが、現代の日本で企業が利益を上げること、成長することは本当に難しいんです。でも株主からはとにかく株価を上げろと要求される。ただし、成長させることが難しくても、株価を上げることはできます。自社株買いや株式分割などはその典型だし、終身雇用をやめてジョブ型に移行すれば非常に巧妙な経路で人件費が減って、売上げは伸びなくても利益は増える。
もちろん、株価対策や経費削減が経営者の大きな責任であることは間違いありません。でも、本来の経営者の仕事は企業そのものの価値を増大させることにあるはずです。今必要なのは何を『成長』と考えるかという価値観自体の転換ではないでしょうか」
人件費の削減も昔とは様相が変わっていると大垣さんは続ける。「昔は、終身雇用の下、経営者が従業員を家族のように思って接し、経営が苦しいときには自分の報酬を削って会社や社員を守ろうとする姿も見られた。ところが、ストックオプション等の普及で、社員の人件費を削れば株価が上がり役員の報酬が増えるという仕組みができて、経営倫理に大きな変化が生じてしまっている」と話す。
だからといって、もうこの構造はおそらく変わらない。であるなら若い人は自分の身を自分で守る(自助)しかない。それが、大垣さんが本書に込めたメッセージだ。そのために必要なキャリアデザインの考え方、会社の選び方、会社勤めのヒントに転職・起業、そしてマネー知識まで、ありとあらゆる情報が本書には詰め込まれている。
特に、「2023年から2024年という今このタイミングは、後々歴史の教科書に書かれるくらいの大きな転機になる」と大垣さんは感じているという。
「長く続いたマイナス金利が解除され、為替も大きく変動して物価の上昇も止まらない。あらゆることが転換期に入っており、この動きは不可逆なものだと思っています。
たとえば、住宅価格の高騰もこれまでは土地が主因だったものが、建材や人件費の上昇で建物自体の値段が急騰している。それなのに金利が上がっているため、月支払い額を減らすため40年を超える超長期ローンを組む若い人が急増しています。退職しても70歳、80歳まで返済が続くいわば『負の年金』が広がっているわけです。
私はこうした転換期を何度か体験してきましたが、今回は、ジワジワと将来に向けた時限爆弾が仕掛けられているように感じられて、これまでで最も嫌な印象を持っています」
金融投資以上に大切な「自己投資」
このように「生きづらさ」の増す日本の今後だが、この本ではそれを所与の現実として、「自助」の重要性を説いている。
自助といえば、「投資」を通じて長期的に資産形成していくことが重要と言われる。確かにそうだが、「投資信託は、すでに市場にある株式や社債を使って運用する側が儲けるために作られた金融商品だ」と大垣さんは釘を刺す。
「もともと投資信託というのは制度的に4~5年くらいまでの投資期間で値ざやを稼ぐためのもので、長期積立てを想定した金融商品ではありません。そうした商品で勝ち続けることはプロでも難しいのです。そこを踏まえて、老後に向けてiDeCoなどを通じてインデックスファンド等に長期的な視点で投資し、老後にこれをうまく取り崩していくことが重要になるわけですが、国全体の成長に制約がある中では、それだけで悠々自適の引退生活を送ることは容易ではありません。
むしろ、庶民にとって一番重要で利回りも高いのは、できるだけ長く生きがいを持って働き続けられる自分への投資です。65歳で会社を退職しても息長くゆっくりと稼ぎ続けられる自分であるために、現役のうちから自己投資をする。このことが金融投資以上に大切だと思います。これをわたしは複線型キャリアデザインと呼んでいます」
新NISAやiDeCoなど、金融投資が注目される昨今だが、その前に何よりも「自分」に投資すべきだという。しかし、「自分のどこ」に投資すればよいのか分からないという人も少なくないだろう。そんな人には、「他の人にとってはつらいけれど、自分にとってはつらくないことに目を向けて」と大垣さんはアドバイスを送る。
「子どもの頃、親や周りから『なんでそんなことばっかりやってるの?』と言われたことはありませんか。他の人にはつらくても自分は時間を忘れてやれること。もちろん、子どもの時にやったことそのものではないにしても、そういう体の使い方というのでしょうか、頑張らずにできる仕事、自然体でできる『他人にはつらいかもしれないこと』を探してみてください。メジャーリーガーの大谷翔平だって、野球を仕事だと思わず、苦しいはずの練習もつらいと思っていないから、あそこまで突き詰めることができているはず。自分にとって無理をせずにできることを探してほしいと思います」
大垣さんはこの本の中で「老後に向けて、資産形成と自分投資を両建てで進めることが非常に重要になっていることを強調しておきたい」と、太字にして念を押している。昨今の投資ブームを受け、とかく資産形成ばかりに目がいきがちであるが、「自分投資」という投資は、この近道を行く際の強力な支えとなるだろう。
(取材協力=大垣尚司 構成=田中裕康)