テロリストを養成した松下村塾
とくに間部の暗殺にはご執心で、長州藩の家老相当の周布政之助に、松下村塾の門下生17人を率いて間部を暗殺するという計画を告げ、長州藩士の前田孫右衛門には手紙で、暗殺に必要な弾薬などをほしいと願い出ています。
松陰にいわせれば、いまが暗殺のチャンスであって、その志を遂げるためには死をも厭うべきではない、ということでしょう。でも、それは言い換えればテロの推奨です。
さすがに周布らは慌てて藩主に相談し、松陰はふたたび野山獄に投じられました。その後、安政の大獄にからんで、松陰は江戸に呼び出されます。ただ、幕府は軽い容疑しかかけていなかったのに、松陰は間部暗殺計画が発覚したと思い込んで、みずから計画を打ち明けてしまいます。
その結果、斬罪になるのですが、「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし」という語録のとおりの生き方を塾生たちに見せたことが、その後、頻発したテロを招いたとはいえないでしょうか。
たとえば、文久2年(1862)に起きた品川近くのイギリス公使館の焼き討ち。久坂玄端、高杉晋作、伊藤俊輔(博文)ら、松下村塾の元塾生が主導しましたが、こうした彼らの行動を招いたのは師の教えだったとはいえないでしょうか。
さらには、松陰は日本が東アジアを制すれば、欧米列強に対抗できると考えていましたが、その考えは明治政府が進めた侵略政策につながったとはいえないでしょうか。
松陰の教育力が抜群に高かったのはまちがいありません。ただ、その教えの「功」と「罪」をともにきちんと評価しないと、テロや暗殺を肯定することにもなりかねない、と危惧します。

