ペリーで日本刀の切れ味を試したい
一坂太郎氏は「当時の若い知識人の多くがそうだったように、松陰は『維新』と『復古』の両面を併せ持つ」と指摘します(『暗殺の幕末維新史』中公新書)。
一坂氏の記述に沿って説明すると、積極的に西洋文明を導入し、富国強兵の実現をめざすのが「維新」。ただ、維新の場合も、天皇を尊重して外国船は打ち払う「尊王攘夷」が根底にあるのですが、同じ尊王攘夷でも、日本は神の国で、その子孫の天皇が世界に君臨すべきだ、という神国思想にもとづくのが「復古」です。
松陰は嘉永3年(1850)に九州の平戸藩に遊学し、海防論者の葉山左内の影響で西洋の兵学を学ぶ必要性を痛感。続いて江戸で、佐久間象山らから西洋兵学を学びましたが、嘉永5年(1852)に長州藩を脱藩すると、水戸の会沢正志斎と会い、その著作『新論』からも大きな影響を受けました。『新論』には、神国たる日本の伝統精神を守るためにも、欧米諸国を排撃すべきだと説かれています。
さて、その後の松陰はどんな行動をとったでしょうか。嘉永6年(1853)6月にペリーが浦賀に来航すると、遠くから観察したのち、同志で熊本藩士の宮部鼎蔵に次のように書き送りました。「唯だ待つ所は春秋冬間又来るよし、此の時こそ一当にて日本刀の切れ味を見せ度きものなり」。
ペリーがまた来たら日本刀の切れ味を見せてやりたいと、殺害予告とも受けとれる発言をしていたのです。
翌安政元年(1854)1月、ペリーが再来すると、松陰は小舟でペリー艦隊の旗艦、ポーハタン号に乗り込もうとしますが、拒否されます。これはアメリカへの渡航を試みたと説明されますが、松陰はのちに「墨使(アメリカ使節)を斬らんと欲す」と記していて、暗殺ねらいだった可能性があるのです。
幕府の要人の暗殺計画
このとき松陰は、幕府に捕らえられて長州の萩に送り返され、城下の野山獄に入れられましたが、悪びれることはありませんでした。チャンスを逃さなかったことが重要で、結果的に罪を犯したといっても、志を達成するためなのだから仕方ない――。その姿勢は、紹介した語録と見事に重なります。
事実、法を犯したことを実兄から非難されると、「禁は是れ徳川一世の事、今時の事は将に三千年の皇国に関係せんとす。何ぞ之を顧みるに暇あらんや」と答えました。つまり、法は徳川幕府が決めたことすぎず、3000年続く天皇の国のためであるなら、そんな法を守る必要なんてどこにある、というのです。
野山獄で1年余りをすごした松陰は、出獄後、しばらく実家の杉家で幽閉生活を送ってから、安政4年(1857)に叔父がやっていた松下村塾の名を引き継ぎ、開塾します。
人間はいかにあるべきか、いかに生きるべきか。松陰はそのことを一方的に教えるのではなく、意見を交わし、議論をしながら授けたといいます。当時としてはまちがいなく、先進的な教育だったといえるでしょう。
しかしながら、「いかにあるべきか」「いかに生きるべきか」が、ことごとく尊王攘夷に結び付いたのが当時の松陰でした。しかも、目的のためには手段を選びません。将軍継嗣問題にも関与する紀州藩付家老の水野忠央の暗殺を計画。大老になった井伊直弼の暗殺にも期待を寄せ、尊王攘夷派を摘発する老中、間部詮勝の暗殺を企てます。


