脳はちゃんとおぼえている
この成果は、2022年に『コミュニケーションズ・バイオロジー』で発表しました(注2)。
この実験のポイントは、「忘れた記憶でもエングラムが残っていること」です。サイレント・エングラムが脳に定着するには、睡眠中に海馬の神経活動が起きることが必要なのです。
さらに追加の実験により、24時間もしくは3日後に同じ部屋(物体の位置は変えない)にマウスを入れると、記憶が強化されることも分かりました。
くり返し学習したのち、睡眠をとることで、いったんは思い出せない状態になっても、強化することが可能なことが証明されたのです。
脳は、忘れた記憶を痕跡として潜在意識下で保持し、将来の使用に備えているといえる結果が得られたのです。
人間でも同じことが起きているでしょう。
思い出せないだけで、僕たちの脳には記憶の痕跡が残っているのです。忘れたことにも意味はある、思い出せないだけで脳には残っている――。
願望や希望的観測などではなく、科学的にそういえることを証明した、画期的な研究だと思います。思い出せない記憶の数々が、僕たちひとりひとりの将来の活動を規定しているともいえるかもしれません。
ポジティブな面でも、ネガティブな面でも、サイレント・エングラムが、もしかしたら、将来の行動や考え方、ひいては人格や個性に影響を与えている可能性もあります。
一夜漬けの勉強にも意味はある
この研究成果は、日常的なことにも示唆を与えてくれます。
たとえば、一夜漬け勉強。そんなことに意味はない、いや意味はある、という議論がありますが、僕たちのこの研究によれば、意味があることになります。
一夜漬け勉強をすると、すぐに忘れてしまいますが、その痕跡は脳に残っているのです。翌日には忘れていた参考書の内容でも、もう一度学習したら、しっかりと記憶することができた経験は誰もがあるのではないでしょうか。これはおそらく記憶痕跡細胞が脳内に残っているからだと考えられます。
マウスで3日なので、人間ならもう少し長く痕跡は残っているでしょう。ただし、マウスの場合、6日後にくり返しても記憶の強化に効果はありませんでした。あまり間を空けずに再勉強するのがおすすめです。
そして、睡眠をとることを決して怠らないようにしてください。勉強と睡眠はセットにしてこそ効果があるのです。
※注1「Orchestrated ensemble activities constitute a hippocampal memory engram」。筆頭著者は、カレド・ガンドールさん(Dr.Khaled Ghandour、富山大学特命助教)。この論文は、神経活動のデータを扱うにあたって、僕たちではできない数学的な解析だったので、深井朋樹教授(沖縄科学技術大学院大学)の研究室と共同で執筆した。第二著者の大川宜昭さんはアイデアマンで、着想したのが大川さん、実験を行ったのがカレド・ガンドールさん、数学的なデータ解析をしたのが深井朋樹教授のグループ。この研究を音楽にたとえるなら、バッハの「ブランデンブルク協奏曲」。1〜6番までで構成され主役となる楽器が各曲で変わるように、異なる領域の専門家たちが集まった研究だった。それぞれの分野の主役が引き立つ、Interdiscipline(学際的)な論文といってもいいだろう。
※注2「A short-term memory trace persists for days in the mouse hippocampus」。筆頭著者は、マハ・E・ワリーさん(Dr. Maha E.Wally、現在の所属はエジプトのブリティッシュ大学)と野本真順さん。この研究はモーツァルトの「ヴァイオリンソナタ第34番 変ロ長調」でしょう。伴奏のピアノがヴァイオリンを支えているように、ワリーさんが中心となって進んだ研究だが、野本さんの手厚い指導とサポートが素晴らしかった。



