嵯峨天皇がはじめた「子」をつける伝統

明治に時代が変わると、今度は、「お」ではなく、「子」がつけられるようになる。「つる」が「つる子」となったわけである。こうした命名の仕方は、明治になると上流階級からはじまり、明治30年ごろには一般の庶民にも急速に広まっていった。

女性に「子」をつけることは、これも嵯峨天皇がはじめたことで、皇室においては、その伝統が今も受け継がれている。だから、愛子内親王であり、彬子女王なのだ。

一つ興味深いのは、民間から皇室に嫁いだ女性たちの場合にも、美智子上皇后や雅子皇后がそうであるように、誰もが「子」がついていることである。これは偶然でもあるのだが、最後に皇室に嫁いだ秋篠宮妃(紀子)は昭和41(1966)年の生まれで、その時代、女の子の名前には半分くらい「子」がついていた。

秋篠宮紀子さま
秋篠宮紀子さま(写真=Presidencia de la República Mexicana/CC-BY-2.0/Wikimedia Commons

それが昭和の終わりから、「子」はむしろ少数派になった。悠仁親王は平成18(2006)年の生まれで、その年、女の子の名前で多かったのは、陽菜、葵、さくらだった。将来、陽菜皇太子妃や葵皇后が誕生するのかもしれない。

「同姓か別姓か」明治期以降に起きた混乱

それはともかく、江戸時代の武士の家では、「渡辺儀助伜 渡辺定助」のように、男子については必ず苗字がついていたが、女子だと「諏訪右衛門娘 きた」と、苗字なしだった。

それが、明治以降になると、女性も苗字がつくようになるのだが、当初の段階では、そこに相当の混乱が見られた。

とくに問題になったのが、妻が夫の苗字を名乗るべきなのか、それとも実家の苗字を名乗るべきなのかという点であった。つまり、夫婦同姓か夫婦別姓かが問われたのである。

その時期の夫婦別姓というのは、里見家から大内家に「花」という女性が嫁いだとき、「大内花」とするのか、それとも「大内某妻里見花」とすべきなのかということなのである。

この議論は紛糾し、政府のなかでも意見の統一がならなかった。夫婦同姓に反対したのは、古代の姓のあり方へと戻ることを主張する「復古派」だった。今日では、これが保守派にあたる。今は保守派が夫婦同姓に固執しているが、明治には保守派こそが夫婦別姓にこだわっていたのである。