選択的夫婦別姓を求める内外の声
国連の日本政府への勧告が耳目を集めている。
皇位を男系男子に限るとした皇室典範の規定が女性差別にあたるとして、その改正を勧告した国連の女性差別撤廃委員会は、選択的夫婦別姓を可能にするよう民法を改正することも求めていた。皇室典範についてははじめてだが、こちらは4回目の勧告になる。
国内でも、選択的夫婦別姓を求める声は高まっている。
経団連でさえ、現在広く行われるようになった旧姓の通称使用は、「企業にとっても、ビジネス上のリスクとなり得る事象であり、企業経営の視点からも無視できない重大な課題」であるとし、今年6月、選択的夫婦別姓制度の早期実現を政府に対して提言している。
各種の世論調査になれば、選択的夫婦別姓制度実現に対して、賛成が反対を上回っており、最近になればなるほど、賛成は増えている。
だが、一方で、この制度の導入に反対する声も根強い。夫婦別姓になると、家族の結束が損なわれるというのである。
「私、苗字がないものですから」
こうした状況が生まれているなかで、それとまったく無関係な立場におかれている人々がごく少数ながらいる。
それが皇族の方々である。なにしろ皇族には、そもそも「姓」がないからである。それは、古来、伝統になってきた。
愛子内親王の場合、諱は愛子で、称号は敬宮である。皇族には、「お印」というものがあり、それは身の回りの品に用いるシンボルになるが、愛子内親王のお印はゴヨウツヅジである。
愛子内親王の母になる雅子皇后は、旧姓は小和田雅子と、もともとは姓があったわけだが、現在では、雅子が諱で、お印はハマナスである。皇后という立場から称号はない。
これに関連して、『赤と青のガウン オックスフォード留学記』(PHP文庫)がベストセラーになった彬子女王は、「徹子の部屋」にテレビ出演したおり、興味深いエピソードを語っていた。
司会の黒柳徹子氏が、「銀行に行って口座を開くときとかお困りでは」と問いかけたところ、彬子女王は、「姓と名を分けて書かなきゃいけないときに、姓のところを空けて書くと、『苗字のところが空いておりますが』と言われて、『私、苗字がないものですから』と答えると、『苗字がない……』と固まられてしまったり」すると答えている。銀行員も驚いたことだろう。
皇族の場合、戸籍はなく、住民票もない。国民健康保険にも入れない。そこが一般の国民とは違うところなのだが、『赤と青のガウン』では、英国留学中、日本の省庁から出向し、オックスフォードに留学していた日本人男性に、日本語で「彬子女王です」と名乗ったところ、「アキコ・ジョー」さんと誤解された話が紹介されている。ジョーなどという姓があるわけもないのだが、面白いので彬子女王はあえて黙っていたという。
皇族が姓をもたない理由
なぜ皇族には姓がないのだろうか。
簡単に言ってしまえば、それは天皇が姓や苗字を授ける側だからである。一般の国民が、皆、苗字をもつようになったのは、明治4(1871)年に戸籍法が制定されてからである。江戸時代になると、庶民でも家が重要なものとなり、「屋号」が用いられるようになるが、苗字はなかった。
こうした姓名、苗字にかんする制度というのは複雑で、時代によっても大きく変わってきたので、その説明は難しいが、古来、天皇は臣下に対して姓を与える立場にあったのだ。
それは、「臣籍降下」という場面において、もっとも明確になる。
そこには皇位継承者を確保するという問題もからんでくるのだが、天皇に多くの皇子がいると、皇位継承をめぐって争いが起こる可能性が増大する。そこで、皇位継承の可能性が低い皇子は出家し、仏門に入ることにもなるのだが、もう一つの手段が臣籍降下である。皇族の身分を離れることになり、その際に、それまでなかった姓を与えられるようになる。
臣籍降下した人間に与えられた姓の代表が「源氏」である。それは、平安時代の第52代嵯峨天皇のときからはじまる。その際に源の姓を与えられた者は、「嵯峨源氏」と呼ばれた。
昔の保守派は夫婦同姓に反対していた
逆に、天皇よりも権威のある存在はないわけで、だからこそ天皇にも皇族にも姓がないのである。
彬子女王が結婚したとしたら、戸籍や住民票ができ、国民健康保険にも加入できるが、姓については夫のものを名乗るしかない。一般の国民なら、夫の姓ではなく、妻の姓を名乗ることもできるが、旧姓が存在しない皇族は選択的夫婦別姓制度の恩恵は決して受けられないのである。
今の保守派は、選択的夫婦別姓制度の導入に強く反対しているわけだが、実は、昔の保守派はむしろ夫婦同姓に反対し、夫婦別姓にこだわっていた。そのことは、最近刊行された尾脇秀和『女の氏名誕生』(ちくま新書)を読んでみると、よくわかる。この本では、とくに江戸時代以降の女性の氏名の変遷について詳しく述べられており、随所で興味深い事実が指摘されている。
たとえば、江戸時代後期、女性の名前は、「つる」や「とみ」などほとんどが平仮名2文字だった。日常の暮らしでは、そこに「お」という字がつけられ、「おつる」や「おとみ」と呼ばれたのだが、手紙や証文で名前を記す場合には、ほとんどが「つる」や「とみ」と「お」をつけなかった。
ただし、宛名となると「おつる殿」と、敬称の「殿」をつけたうえに、「お」もつけていた。そうなると、「お」が名前の一部なのか、接頭語なのかが問題にもなってくるのだが、尾脇氏は、どちらも正解だと述べている。
今の感覚では、「お」の正体を説明することが意外と難しいのだ。
嵯峨天皇がはじめた「子」をつける伝統
明治に時代が変わると、今度は、「お」ではなく、「子」がつけられるようになる。「つる」が「つる子」となったわけである。こうした命名の仕方は、明治になると上流階級からはじまり、明治30年ごろには一般の庶民にも急速に広まっていった。
女性に「子」をつけることは、これも嵯峨天皇がはじめたことで、皇室においては、その伝統が今も受け継がれている。だから、愛子内親王であり、彬子女王なのだ。
一つ興味深いのは、民間から皇室に嫁いだ女性たちの場合にも、美智子上皇后や雅子皇后がそうであるように、誰もが「子」がついていることである。これは偶然でもあるのだが、最後に皇室に嫁いだ秋篠宮妃(紀子)は昭和41(1966)年の生まれで、その時代、女の子の名前には半分くらい「子」がついていた。
それが昭和の終わりから、「子」はむしろ少数派になった。悠仁親王は平成18(2006)年の生まれで、その年、女の子の名前で多かったのは、陽菜、葵、さくらだった。将来、陽菜皇太子妃や葵皇后が誕生するのかもしれない。
「同姓か別姓か」明治期以降に起きた混乱
それはともかく、江戸時代の武士の家では、「渡辺儀助伜 渡辺定助」のように、男子については必ず苗字がついていたが、女子だと「諏訪右衛門娘 きた」と、苗字なしだった。
それが、明治以降になると、女性も苗字がつくようになるのだが、当初の段階では、そこに相当の混乱が見られた。
とくに問題になったのが、妻が夫の苗字を名乗るべきなのか、それとも実家の苗字を名乗るべきなのかという点であった。つまり、夫婦同姓か夫婦別姓かが問われたのである。
その時期の夫婦別姓というのは、里見家から大内家に「花」という女性が嫁いだとき、「大内花」とするのか、それとも「大内某妻里見花」とすべきなのかということなのである。
この議論は紛糾し、政府のなかでも意見の統一がならなかった。夫婦同姓に反対したのは、古代の姓のあり方へと戻ることを主張する「復古派」だった。今日では、これが保守派にあたる。今は保守派が夫婦同姓に固執しているが、明治には保守派こそが夫婦別姓にこだわっていたのである。
比較的新しい「伝統」の共通点
日本において、いったい何が「保守」なのかということは、必ずしも明確ではなく、大いに議論を呼ぶところである。
現在の石破首相も、自民党を保守政党とはとらえず、「国民政党」としてとらえている。自民党のなかには、そのようにとらえる政治家が存在する。
保守は、何より伝統ということを重んじるが、伝統がどこまで遡るものであるのかは相当に難しい。
選択的夫婦別姓に反対する保守派は、夫婦同姓が伝統だとするが、それはあくまで「明治になってからの伝統」であり、近代社会が生み出したものである。その点で、皇位継承について男系男子が伝統であるとする議論と共通している。
社会は絶えず変化し、しかも、そのあり方は大きく変わっていく。変化が起こってしまうと、それ以前のことがわからなくなってしまう。私たちは、伝統だと言われる事柄が、いったいいつまで遡れるものなのかを確かめていく必要がある。
多くの場合、それほど昔に遡るのは難しい。少なくとも夫婦同姓や男系男子での皇統の継承は明治以降に生まれた、比較的新しい「伝統」である。にもかかわらず、伝統ということが持ち出されるのは、他に正当な理由を述べることが難しいからなのではないだろうか。