結婚も離婚も個人の選択
〈2022年に離婚した夫婦のうち、同居期間が20年以上だった「熟年離婚」の割合が23.5%に上り、統計のある1947年以降で過去最高になった〉(朝日新聞2024年8月13日)。
先月、このような新聞記事が注目の的となりました。
拙著『パラサイト難婚社会』でも詳しく書きましたが、今は、結婚した3組に1組が離婚する時代。結婚が、難しい。いわゆる「難婚」社会を私たちは生きています。
結婚も、離婚も、個人の選択です。選ぶか、選ばないか。決めるか、決めないか。いずれも選択という行為になんら変わりはありません。言うなれば、その選択自体の「難易度」が、時代とともに変わってきたのです。
今回は、結婚。結婚相手の選択の難易度の変化について、「排他性」というキーワードから見ていきます。誰かを選ぶとは、他の人を“選ばない”こと。すなわち排他性が、結婚という選択には活きているのです。
まずは「異性の友人」について。結婚を決めたパートナーにいる異性の友人という存在は、どこまで許せるものなのでしょうか。
“新婦の先輩”という安全地帯
約40年前(1980年代)、私が20代の頃、親しい異性の友人の結婚式に出席しました。
私の席には「新婦の先輩」とあり、彼女の職場仲間のテーブルに座らされました。彼女が結婚前、お互い恋人がいる中で知り合い、気が合い、時々食事などを一緒にする仲でした。
もちろん、新郎も知っています。後で聞くと、どうしても祝って欲しかったが、夫の家族や親戚の手前、「男性の友人」がいたというのは憚られる。だから、仕事上の先輩ということにして出席してもらった、とのことでした。
こんなことは昔のことだろうと思うと、私が回答者を務めている人生案内(読売新聞)に次のような相談が載せられました。相談者は60代主婦、要約すると、「結婚前の女性の友人と夫が年賀状のやりとりを40年続けていることが分かった。夫にそれは非常識だと言うと、別に何もなかったと答えたが、信じられない。私たちは仮面夫婦で、仲が悪いのは、その女性のせいだと思うと許せない」というものでした。
私は、「年賀状を出しあう関係が即深い仲とはならない。恨むのはよして、自分の楽しみを見つけたら」という趣旨の回答をしましたが、私と同年代で、年賀状を交換し合う異性の存在自体が許せない、と考える人がいることが驚きでした(2024年7月8日朝刊)。
昔、私の母(1931~1996)によると、当時は結婚したら単なる知り合いでも男性とは一切連絡をしないのが当然だったそうですが。存命中に直接聞いた言葉です。