※本稿は、岡田憲治『教室を生きのびる政治学』(晶文社)の一部を再編集したものです。
なぜ議論するのか
そもそも、人はどうして議論などするのだろうか?
すまん。やっぱり「そもそも」の話になった。
僕たちは、学校で、街場で、家庭で、「話し合いなさい」と言われ、「対話が大事」と教わり、「議論が必要だ」と耳にしてきた。そうやって言葉を投げ合ってやりとりすることの大切さはなんとなくわかるし、面倒くさい気もするけど、相手が何を考えているのかわからないと困るし、ガスを吐き出さないと心のなかが何かで詰まってしまう感じもある。
でも、そうしたやりとりが「対話(ダイアローグ)」なのか「討論(ディベート)」なのか「議論(ディスカッション)」なのか、あまり細かい区別もなしに、「話し合い」として、いろいろなされてきた(この区別については踏み込まない。その前の部分がとりあえず大事だ)。
こんなことはないだろうか?
話し合ってどうすんだよ?
話し「合って」ないじゃん
クラス対抗の体育祭の実行委員会があるから、全クラスから委員選んで2名ずつ視聴覚教室に集まれとメールがきた。話し合いがあるらしい。行ってみると、「1年や中等部が、あたしら高2の委員会の指示通りにしか動かないから、もっと考えて動いてよ」と説教の時間だった。「こっちもいつまでも面倒見られないから、もっとこのクラス対抗について意識持ってやってよ」ってことだ。何それ。話し「合って」ないじゃん。上からの説教じゃん。でも話し合うんだそうだ。いつもそう。なんか、話し合う。