つらい現実の裏で犠牲になっている命

仕事がリモートとなり在宅時間が増えたことで、余裕や手持ち無沙汰を感じて何か新しいことを始めようとするのは決して悪いことではない。けれど、その対象が命である場合はどうだろう。ただの思いつきやその場のノリで決めてはいけないことは、誰がどう教えれば今さら大の大人がきちんと理解してくれるのだろうか?

たしかに私たち人類は未曾有の事態の渦中にいて、自分たちの命さえ危ぶまれる環境にある。けれど、その不安を少しでも軽くするためにペットたちは利用され、翻弄され、命に期限をつけられ……救い手が現れなければあやめられてしまうのだ。

野良猫
写真=iStock.com/ninode
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人間と違って、たとえば犬や猫などのペットたちは、家からはぐれてしまえば処分という形で命を奪われてしまう。虐待されていたとしてもどこかの誰かにサインを出すことなんてできないし、その飼い主は“毒親”としてニュースになることはない。迷子になっただけ、身勝手な親(飼い主)に嫌われただけ、非常識極まりない人間から見た目が気に入らないとされただけで、殺処分になってしまうことが多々あるのが現実だ。

それは自分ごとに置きかえてみればとても怖く、あり得ないことではないだろうか? それとも人間に起きたら大事件なのに、ペットならしょうがないと言えるのだろうか? コロナ禍の手持ち無沙汰で考えなしに起こした行動が、命の犠牲を増やしていることに私たちは一刻も早く気づくべきだ。そして、命がこれ以上粗末に扱われないようにするため、私たちに今すぐできることは何があるだろう。

命の搾取を防ぐため、今すぐ私たちにできること

身勝手すぎる人間の行動をなくすため、私たちにできることはいくつかある。それはたとえば犬猫保護団体でボランティア協力をしたり、それが無理であれば寄付などで参加するのもいい。けれど、もっともやらなければいけないことで、なおかつすぐにできることといえば、それは私たちの意識を変えることにほかならない。

日本は先進国でありながら、もともと動物愛護に対する考え方が遅れているともいわれている。生体販売がここまで盛んに行われている国は日本をおいてほかにはないし、ペットショップで購入する場合は審査なども必要がない。どんなに留守をしがちでも、家が狭くても、責任感がなくても、お金を出せば(もしくはときにはそれすら必要なく!)命を預かれてしまう現実がここにはあるのだ。

けれど、きれい事なしで言わせてもらうならば、ペットを飼うには精神的・物質的余裕が絶対に必要だ。仕事や遊びにかまけ家を空けてばかりいる人、仕事帰りや休日にめいっぱい予定を入れたい人、環境が変わったら手放すという考えが少しでもある人、お金に余裕がない人、時間をコントロールできない人……これらに当てはまるのであれば、ペットを飼う資格はない。好き・嫌い関係なく、少なくともこれらの条件を満たしていない人は、命を扱ってはいけないのだ。

ペットや子どもに対してよく使われる“小さな命”という表現は、その価値を表すものではない。ときに大人のちょっとした行動によって危機にさらされてしまうかもしれない弱い立場に対しての表現だ。命の重さは常に平等なはず。ペットを飼うのにブームなんていらない。今、この瞬間の寂しさや不安を埋めようと行動する前に、それが軽率なものでないかをいま一度振り返ってみてほしい。私たち大人にはペットたちと戯れる以外にもやるべきこと・やらなければいけないことがたくさんある。けれど、ペットたちにとっては飼い主であるあなたがすべて。飼い主と過ごす時間が命そのものだということを、強く強く肝に銘じておかなければならない。

乙部 アン(おとべ・あん)
フリーエディター/執筆家

新ファッションウェブマガジン「LIV,」女性ファッション誌のフリーエディターをしながら執筆家としても活動、いくつかの連載を掛け持ちする。アメブロやnoteなどのブログでは、大人の女性に役立つファッション・仕事・サステナブル・ライフスタイル・独自の人生哲学を発信。