量子技術がもたらすパラダイムシフトとは
――世界的に量子技術の実用化が近づくなか、製薬業界でもその活用が注目されています。中外製薬ではどのような狙いで量子技術の研究を進めておられるのか、具体的な取り組み内容とあわせて教えてください。
【鈴木】量子技術は、今まさに実用化に向けて注目が高まり始めた段階です。現時点ではまだ事業として本格的に活用しているわけではありませんが、自社で薬を生み出す力をさらに広げる大きな可能性があると考え、試行錯誤を重ねながら取り組みを進めています。
具体的には、量子コンピュータを用いて分子の相互作用を解析する量子化学計算と、中分子領域での新薬設計への応用を中心に研究を進めています。例えば、中分子領域のペプチド創薬では、分子同士の結合(ドッキング)解析に量子化学的手法を応用しています。これまでは再現が難しかった分子間相互作用をより精密に解析できるようになりつつあります。現在は、概念実証(PoC)を通じて、その可能性が“確信”へと変わろうとしている段階です。
中外製薬株式会社
参与デジタルトランスフォーメーションユニット長
【寺部】量子コンピュータは、従来のコンピュータが「0か1」で計算するのに対し、量子ビット(キュービット)が0と1の状態を同時に持つ“重ね合わせ”を利用して計算します。複数のキュービットが連動することで膨大な組み合わせを並列に探索でき、従来ではそれこそ膨大な時間を要した計算を短時間で行える可能性があります。新薬開発のように膨大な候補の探索が必要な領域では、特に力を発揮すると期待されています。
中外製薬さんとは約1年半前から共同研究を進めており、量子コンピューティングを用いた化合物とタンパク質のドッキング解析に向けた基礎的なアルゴリズムを共に検証しています。デロイト トーマツの量子チームは、アカデミア出身の研究者や企業で量子研究をリードしてきた専門家で構成されています。量子分野の知見と、中外製薬さんのライフサイエンス分野の専門性、特に創薬に関する深い知見をかけあわせて、「どのアルゴリズムが実際に使えるのか」を検証しています。
【鈴木】まさにその並列処理や高精度計算の特性こそ、創薬において大きな可能性を持つと考えています。一般的に新薬開発には10〜15年、数千億円を要し、化合物探索の競争も激化しています。こうした状況では、従来型の手法だけではビジネスとして成立しにくい段階に来ていると感じていました。
量子コンピュータを活用すれば、これまでは数百通りしか試せなかった化合物のシミュレーションを文字通り桁違いのスケールで行えるようになります。量と時間を大きく変えるパラダイムシフトが起こり得るのです。また、量子的な状態まで計算に組み込めるため、従来の方法では導き出せなかった未知の分子構造や反応経路も探索できると期待しています。
「量子革命」で誰も予想しなかったイノベーションを起こす
――量子コンピュータの活用によって製薬の研究開発が変わると、どのようなブレイクスルーが期待できるのでしょうか。
【鈴木】製薬業界はこれまで、動物実験や臨床試験といった実験科学で発展してきましたが、近年はAIや計算化学の導入が進み、量子技術の進歩がこの流れをさらに加速させる可能性があります。将来的には人体の反応を仮想空間で再現し、実験を大幅に省略、あるいは計算のみで完結させる可能性もあります。
【寺部】こうした量子技術の進展は、製薬業界のみならず、他の分野でも新たな可能性を生み出しています。例えば、生産最適化やリスク計算、ポートフォリオの最適化、化学・材料開発などが進むと期待されています。しかしそれはあくまで、今のビジネスを延長していく前提で考えられたものばかりです。
量子コンピュータは現在のビジネスを革新させるだけでなく、量子でしかできないものも生み出す力があると思っています。分子設計や新素材開発、気候変動の精密なシミュレーションなど、従来の計算では不可能だった領域を切り拓く可能性もあるとみています。
デロイト トーマツ グループ
量子技術統括
【鈴木】近似ではなく、量子力学に基づいて自然界に起こっていることをシミュレートして予測できるようになるので、もはや「量子革命」と言ってもいいかもしれませんね。これまでの常識が覆されるような新しいものが生まれてくるのではないかと、ワクワクします。
常識を覆すという点において、私たちが目指しているのは“個別化医療”の実現です。最適な薬の種類や投与量、タイミングをより精密にシミュレーションできる仕組みが進化すれば、薬のつくり方だけでなく、人々の健康の保ち方や、ウェルビーイングな社会のあり方も大きく変わっていくと期待をもっています。こうした進化は、単なる技術革新ではなく、製薬企業の存在を再定義する変革になると考えています。
一方で、科学的根拠の確実性や社会的な受容性をどのように担保するかという新たな課題も生まれます。技術革新が進んでも、薬の信頼性を担保し、社会に届ける最終的な責任は、これからも製薬企業が担い続けると考えています。

夜明け前に仕込んだ企業が未来を制す
――量子技術の実用化に備え、企業は今どのような準備をすべきだと思われますか。
【寺部】量子コンピュータは製造が難しい技術です。今後の需要急増に対しては供給が追いつかなくなる可能性も言われ始めています。そのため、優れたハードウェアを開発した企業に世界中の利用者が集中し、一部の企業だけがノウハウと利益を先行的に獲得する構造が生まれていくと考えられます。
私たちはこの動きを見据え、早い段階からアメリカの有力なハードウェアベンダーであるQuEra(クエラ)と戦略提携を結び、ノウハウを蓄積してきました。量子分野のエコシステムは今まさに形成期にあります。今、この時期にどの企業と関係を築き、また自社の体制や人材、研究開発環境を整備して準備を進めておくかが、将来の競争力を大きく左右すると考えています。
また、実用化フェーズにおいては、サイエンスとビジネスが直結する領域から優先的に進展していくと見込んでいます。創薬のように、科学的な成果がそのまま事業価値につながる産業はユースケースとしても非常に有望だと思います。基盤づくりを進める一方で、量子技術がもたらす価値を具体的な産業領域へとどう展開するかというのも重要な視点です。
【鈴木】デロイト トーマツさんのすばらしいところは、まずオープンな姿勢で情報を見渡し、外部の専門家を積極的に集めている点です。さらに、主体者としてリスクを取りながら量子の実装に踏み出している。単なるアドバイザーにとどまらず、共に挑戦するパートナーとしての本気度を感じています。
先行者利益が大きい分野ではありますが、一社で抱えるのは非常に難しい領域です。産官学の枠を超え、企業同士が連携しながら量子エコシステムを共に創ることが次の10年を左右すると考え、挑戦を続けていきたいですね。そして、イノベーターとして道を切り拓くことで、製薬業界はもちろん、他業界へも一石を投じることができればと考えています。
【寺部】ありがとうございます。デジタル革命の初期、まだ誰も本格的にインターネットを使っていなかった頃に動き出した企業が、今の時価総額ランキングの上位を占めています。量子技術も同じで、まさに今が勝者を分けるフェーズにあります。まずは人材を育て、そのうえでどの領域に、どれだけ投資するかを見極める時期に来ていると考えています。
さきほど鈴木さんもおっしゃっていましたが、量子の世界には「こんなことができるんだ」という純粋なワクワクがあります。その熱量を共感できる企業と共に、新しい価値を生み出していきたいと思っています。