昔は暗記するまで夕食抜き

「ああ、ヴェーダ数学ですね。じつは今は取り入れていない学校も多いんですよ」とアンジェリー先生は意外なことをおっしゃる。

「ヴェーダ」とは、紀元前6世紀ごろにまでさかのぼるという、古代インドの祭礼儀式が記された教典。その「ヴェーダ教典」を解読して16巻にまとめたのが、数学者でもあったティールタジー(1884-1960)だが、すべて紛失してしまい、晩年にたった1冊だけ記したのが「ヴェーダ数学」という名前の本だ。

シンプルかつ合理的な計算方法を紹介したこの「ヴェーダ数学」は、間もなく実際の教育現場でも取り入れられるようになった。これが「インド式算数」として日本でも紹介され、一躍注目の的となったわけだ。

ところが今から10年以上前、インドの算数教育界にも「グローバル化」の波が押し寄せた。それはもしかしたら「『2000年問題』の解決に大きく貢献した」とインド人のITエンジニアたちがもてはやされたことと無関係ではないのかもしれない。将来、ITエンジニアとして子供たちが世界に羽ばたくためには、インド独自の方法ではダメだ、と。

その結果、欧米や日本で行われているのと同じ「国際的な」つまりは「グローバルスタンダードの計算方法」が取り入れられて、「インド式算数(ヴェーダ数字)」の授業は正規のカリキュラムから外されてしまったのだ。

もちろん10年以上前に小学生だったアンジェリー先生は、10歳のときにはすでに20×20まで暗記していたという。これはアンジェリー先生が特別だったわけではなく、「クラス全員が暗記していた」とのことだ。「毎日の算数の授業でもノートも教科書も机の上に出さず、ただただみんなで暗唱していましたね」

ただし、九九の81個と違い、20×20の計算は400個。授業中だけで覚えきれるものではない。

週末には勉強好きの生徒が、先生の自宅に集まって自主学習。

「家では両親から、今日はここまで暗記しなさい、と目標を設定されるわけです。できれば夕食が食べられますが、できなければ夕飯抜きと言われてね。食べ盛りの子供にとって空腹は最大の敵ですから、みんな必死で覚えましたよ。ええ、みんなです。できたら食事あり、ダメなら食事抜きというルールは、どこの家庭でもありました」

三つ子の魂百までというが、子供のころにインド式算数をたたきこまれたアンジェリー先生の計算は確かに早くて正確だ。「基本の20×20までさえ暗記しておけば、あとは応用できますから」と、たとえば45×45などの暗算はものの2、3秒で解く。やはり恐るべきインド式算数。だが体罰や大声などで威圧する教育ではなく、「夕食という幸せにありつくために暗記する」という、ある意味での前向きさが感じられる。