私が自らの講義で取り上げるとすれば、鉱山労働者の安全をめぐる抽象的問題に焦点をあてるだろう。鉱山の安全規則とはどうあるべきか、雇用主はいくら払うべきか……。だが、閉じ込められた作業員に注がれた人間的な関心の前には、こうした問題などかき消され、ほとんど話題にも上らなかった。労働者の安全という抽象的な問いかけが、すべての人が理解できる人間的な、感情的なレベルに落とし込まれたのだ。

実際、生身の人間がそこでもがき苦しんでいるとき、人々は、もっと具体的な形で、その事象を理解しようとするものである。自分が、または愛する人が鉱山に閉じ込められたら、どうなるか。誰もが、わが身に置き換えて問題をとらえようとする。

そうした人々の関心や心配を、もっと大きな問題へと高め、社会正義や労働者の安全に対する責任など、より広範な問いかけへと結びつけるのは容易ではない。理想的には、政治家が、その役目を担い、今回のような非常にドラマチックで人間的な経験を大きな問題へと関連づけていくべきだと思う。「共通善」の政治には、そうしたプロセスが欠かせない。

最後に日本について触れたい。議論の仕方や人の意見の聞き方など、日本から学ぶものは多い。最近の問題では、経済格差については、米国は日本の報酬慣行を見習うべきだと思う。